うした言葉が、力強く僕の胸に跳ね返ってきたのです。あの若者のような場合に、あの若者のような態度に出ることは、何人からも肯定さるべき、自然な人情ではないか。それが、人間として美しいことではないか。それだのに、自分自身死にそこなって苦しがっている彼を、法律は追及して、罰しなければならないのだろうか。
 そんなことを、考えていると、僕はさっき、傷に悩んでいる青年を脅《おど》したり賺《すか》したりして問い落して得意になっていた自分の態度が、さもしいように考えられて来たのです、僕の職務的良心が、ともすればぐらぐらに崩れそうになっていたのです。

 出張したのは二時頃でしたが、すべての手続きが片づいた頃には、日がとっぷりと暮れていました。僕らは、引き上げようとして、俥が来るのを待っていたときです。臨検中は、私人が二階へ上るのを、一切禁じてあったのですが、もうすべてが終ったので、家人の上るのを許したのです。すると、待ち構えていたようにいちばんに上って来たのは、さっき見かけたこの家のお主婦《かみ》なのです。
 僕の顔を見ると、平蜘蛛のように、お辞儀をしながら、そのくせ、額ごしに、冷たい目でじろじろ見ていたかと思うと、いいにくそうに、
『旦那はん。あの指輪《ゆびはめ》、取っても大事おまへんか』と、こういうのです。
『指輪! 指輪が、どうしたのだ』
 お主婦は、ちょっと追従笑いをしていましたが、
『へえ。あの子供がはめておりますんで』
 僕はそうきいたときに、妙な悪感を感ぜずにはいられなかったのです。
『じゃ、あの死体の指にはいっている指輪を欲しいというのだな』
『へえ! さよで』
 僕は、頭から怒鳴りつけてやりたいと思ったのです。が、しかし、検事としての理性が僕の感情を抑えたのです。死体から、指輪を剥ぎ取るということ、それは普通な人情からいえば、どんな債権債務の関係があるにしたところで人間業ではないような恐ろしいことです。けれども、法律的にいえば、それは単に物の位置を移すということに過ぎないのです。
『よろしい』
 僕は、そう苦《にが》り切って答えるほかはなかったのです。お主婦は、一人では怖いからといって、刑事に付いてもらって、死体の置いてある部屋の方へ行きました。
 お主婦の姿を見送った僕の心は、憤懣とも悲しみとも、憂愁ともつかない、妙な重くるしい、そのくせ張り裂けるような感情で、
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