ざる時は、一度に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。将《まさ》に、出動しようとして居る処へ天草の上津浦から使が来た。曰く、「寺沢家の支城富岡では、宗徒鎮圧の為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近く島子志柿辺まで軍勢を指し向けたから至急に加勢を乞う」と。
 そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。島子の一戦に寺沢勢を敗走せしめ、本戸《もとど》まで追撃して、ついに大将藤兵衛を、乱軍の中に自刃せしめた。何しろ、島中の人民はほとんど総てが信徒なので、征討軍が放つ密偵は悉く偽りの報告を齎《もたら》すから、まるで裏をかかれ通しである。
 十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎兵衛、口野津《くちのつ》の作兵衛、有馬の治右衝門、千々岩の作左衛門以下千五百人、有家《ありや》の監物、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千二百人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百人、本渡《もとわたり》の但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上
前へ 次へ
全34ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング