島、三河の一向一揆に手を焼いたかを見てもわかる次第だ。内膳正重昌、若い頃、大阪陣に大任を果したから、百姓一揆何程の事あろうと思召されようが、それは大違いである。且亦、重昌人物たりと雖《いえど》も三河深沢に僅か一万五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍陣はかばかしからず、更に新に権威ある者を遣すことにでもなった暁、重昌何の面目あって帰ろうや。あたら惜しき武士一人殺したり」情理整然とした諫言《かんげん》に、流石《さすが》の家光も後悔したけれども及ばなかった。悲しい事には、宗矩の言一々的中したのであった。重昌出陣に際して書残したものに、次の如く誌《しる》されてあった。
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去年の今日《こんにち》は江城に烏帽子《えぼし》の緒をしめ、今年《こんねん》の今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れる世のならひ早々打立候。
あら玉の年の始に散る花の
名のみ残らばさきがけと知れ
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重昌の志や悲壮である。名所司代板倉重宗の弟で、兄に劣
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