なく、諸処に討死をする。一揆の方では三会村の藩の米倉を奪取しようとさえした。
 隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境以外は幕命がなければ兵を進めることは法度である。豊後府内に居る幕府の目付が救援を許さないので、次第に騒動が大きくなるのを眺めているだけだった。
 島原城から繰出した討手の軍勢も散々に反撃を受けて、早々に退き籠城しなければならなかった。宗徒勢は城下の民家社寺を焼き払って陣を布いた。此頃になると宗徒勢も大軍をなす程であるから、誰か総大将を立てようとの論議が出て来た。さらば稀代の俊英天草四郎時貞こそ然るべしと云うので、大矢野宮津の道場に急使をたてた。四郎は直ちに諾して、「我を大将と仰ぐからには、如何なる下知にも随《したが》うべし。陣立を整う故に早々各地の人数を知らしむべし」と命令した。道場の周囲には既に七百の武装民が集って居た。間もなく四郎は警固の者四五十人と共に、島原の大江村に渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎附近へ人数一万二千余を二つに分けて遣わし、日見《ひみ》峠、茂木《もぎ》峠に布陣して長崎を見下し、使をやって若し宗門に降らざる時は、一度に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。将《まさ》に、出動しようとして居る処へ天草の上津浦から使が来た。曰く、「寺沢家の支城富岡では、宗徒鎮圧の為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近く島子志柿辺まで軍勢を指し向けたから至急に加勢を乞う」と。
 そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。島子の一戦に寺沢勢を敗走せしめ、本戸《もとど》まで追撃して、ついに大将藤兵衛を、乱軍の中に自刃せしめた。何しろ、島中の人民はほとんど総てが信徒なので、征討軍が放つ密偵は悉く偽りの報告を齎《もたら》すから、まるで裏をかかれ通しである。
 十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎兵衛、口野津《くちのつ》の作兵衛、有馬の治右衝門、千々岩の作左衛門以下千五百人、有家《ありや》の監物、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千二百人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百人、本渡《もとわたり》の但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上
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