鳴が聞えると同時に、たちまち馬が、竿立《さおだち》になり、タッタタッタと、二、三歩後退した。
五
ちょうど、別荘から出て来た新子と、折悪しく夫人の馬とが、出会頭になったのだ。
夫人も必死に馬を止めたらしく、ちょっと口が利けないほど、驚いているし、新子はあわてて馬を避けた拍子に、背後《うしろ》へ倒れかかったらしく、そこにある白樺の太い幹へ、十字架にかかったような姿勢でよりかかって、痛そうに顔をしかめ、鷺《さぎ》のように片足で立っているのだった。
青年は驚いて馬から降りると、手早く馬を傍《かたわら》の木につなぎ、
「蹴られたんですか。」と、不安そうに、新子に近づいた。
「大丈夫よ。ただ、不意だったから、びっくりなさったのよ。ねえ、怪我なんかないでしょう。」さすがの夫人も、あなや[#「あなや」に傍点]という思いをして、胸をとどろかせているのに、なお平生《ふだん》の虚勢を捨てないのだった。
「大丈夫でしょう。ねえ。」と、もう一度云うと、すっかり不機嫌そうに、謝罪の言葉など一言もなく、二人の脇を馬に乗ったまま、通りすぎてしまった。
「足を、どうかなさったのですか。」そう云いながら、青年は取り敢《あえ》ず、新子の手を曳《ひ》いて、彼女が落ちかかっていたくぼ[#「くぼ」に傍点]地から、彼女を小径の方へ連れ出した。
「何でもございませんの、私、ぼんやりしておりましたので、随分驚いてしまって……痛っ……」シャンとしようとすると、足首が痛かったので、彼女は思わず声を立てて、青年の肩にすがった。
「足をくじかれたのでしょうか。」
「いいえ。大丈夫です。どうぞ、いらっして下さいませ。」新子は、すぐにも自分の痛い足を見たいのに、青年がいるので、裾を揚げるわけにも行かず、夫人のお客様などの世話になる気には、とうていなれず、ただ早く立ち去ってくれればと思っていた。
「手から血が出ていますよ。」と、云われて、新子は初めて、手首の痛みにも気がついた。白樺の幹ですりむいた傷らしかった。
彼女の白い手の甲に、うっすらと血が滲んでいた。
「無茶ですよ。あの人は、……乱暴に飛ばせるんだもの……」夫人のことらしかった。新子は黙って、そっと手首の傷を叩いた。
「貴女、僕の肩へすがって、いらっしゃいませんか。もし、足をくじいているとすればなるべく動かさない方がいいですから。」新子は、ハキハキしている悪気のなさそうなこの青年に、うちとけてもいい好意を感じた。彼女は、怯《わる》びれず肩にすがらせてもらった。
「でも、よかったですね。蹴られたりなんかすると、たいへんですよ。」
「あんまりあわてたもんですから、もっと落着いていればよかったんですわ。」
「誰でも、あわてますよ。こんな道で、あんなに駈けさせるんですもの……」
夫人の高慢な態度を、新子に代って非難するように、新子を慰めつづけた。
[#改ページ]
圭子の仕事
一
新子の姉の圭子が、会員になっている新劇研究会というのは、M大学の文学科の教師をしている小池利男というフランス帰りの劇作家が、顧問兼監督をしていて、会員は大概良家の文化的の子女で、大学や専門学校へ通学している男女学生である。この春から第一回の公演として、アンリ・ルネ・ルノルマンの「落伍者の群」を、やるやると歌に唄いながら、結局学校の休暇を待つよりほかなかった。
それに、劇場も夏場で、借りやすくなったので、S劇場を七月の二十五日から二十九日まで五日間だけ借りて、いよいよ公演の運びになった。
圭子は、みんなから推されて、女主人公《ヒロイン》である「彼女」の役をやることになった。
最初は、切符を会員で分担して売ることになっていたが、いざとなると、思った三分の一も売れず毎日の小屋代、大道具代、衣裳代、弁当代、かつら代などの調達に、初日早々から、四苦八苦の有様だった。
しかも、どの費用も大抵は、その日払いで、ちゃんと払わなければ翌日から、小屋を開けてくれないので、苦労知らずの若い連中は、初舞台を踏む興奮も嬉しさも、金策の苦労で消されがちだった。
ただ圭子は、十四場の長い芝居に、どの場もどの場もやり甲斐があり、殊に「彼女」という役そのものが、貧苦に責められながら、純情と女らしさとで、わが命の最後まで「彼」を愛して、「彼」を援《たす》けつづけるという役だけに、今度の公演でも、たとい困難があっても、自分があらゆる犠牲を払って、五日間の公演を無事に済ませようといったような純情的な興奮に燃えていた。
初日の夜の十一時過ぎ、身体は疲労しているが、頭ばかりは興奮して、冴えてしまっている圭子は、昭和通りのマリキタという、スペイン風の酒場で、小池と差向いで、ジン・フィズの盃を、半分くらい乾していた。
小池は、快活な小
前へ
次へ
全108ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング