物を出して、ともかくも着かえてから、部屋を片づけた。
(これが、生活なのだ。これが世間なのだ。これが奉公なのだ。部屋は、これでちょうどいいのだ。さっきまでのは良すぎたのだわ)と、新子は妙に、イライラした自分の神経をなだめるように、胸の中でいった。
 奥さまのところへ、挨拶に行くのが何となくおっくう[#「おっくう」に傍点]で、不快で、しばらくの間ぼんやりしていると、さっきの女中が来て、
「奥さまが、お部屋でお目にかかるといっていらっしゃいます。」と、いった。
 奥さまの部屋は、二階に在り、子供達に案内してもらって一度見たことがある。新子の部屋から廊下を真っ直ぐに、三段ほど上って母屋の二階へ出ると、主人の部屋と並んでいた。
 バルコニイのある貴族趣味の、いかにも別荘らしい瀟洒《しょうしゃ》たる部屋で、ぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]を極めていた。
 白い色を多く使った明るい家具が置かれ、バルコニイ近い豊かなソファに、軽い紗のアフタヌーンを被《き》た夫人が、あだかも大公妃のような態度で、彼女を待っていた。

        五

 新子は、準之助氏と一しょに散歩に出たことについても、きっと叱言《こごと》があるに違いないと思うと、女学校時代にやかましいオールド・ミスの先生に呼び出された時のように、丁寧に会釈すると、何かいわれるまでは、立っていた。
「どうぞ、おかけ下さい。」と、夫人は身近い椅子を指ざした。新子は、卑屈にならない程度で、愛想ふかく、ほほ笑みながら、腰をおろして落着くと、
「子供と一しょに来ないで、いろいろご迷惑でしたでしょう。主人から伺いましたけれども、子供の勉強を見て下さる時間割は、たいへんけっこうだと思います。でも、貴女が子供達を遊ばして下さるのは、ご親切ですけれども、あまり馴々《なれなれ》しくさせないで頂きたいと思いますの。家庭教師は、女中ではありませんから。先生としての恐《こわ》さを無くしてしまうと、いろいろ弊害が多いと思いますから……そのおつもりで……」と、夫人は何か小さい卓上演説《テーブルスピーチ》でもするように、ハッキリというとだまってしまった。主人と散歩してはいけないなどいうような注意は、夫人自身の尊厳を害するとみえて、おくびに出さず、顧みて他をいったというような注意だった。
 しかし、それも何かしら無理な注意で、
「はア。」と、新子は、憤りと口惜《くや》しさに顔を赤くしながらも、しとやかに夫人の言葉を受けた。
「それだけ、申し上げたくてお呼びしたのです。どうぞ、お引き取り下さい!」と、夫人はあくまで高飛車に、部屋を取りかえたことなどは、夫人としては当然すぎることらしく、それに対する挨拶などは一切なかった。
 新子も、こんな気持で、夫人とこれ以上対坐することは、堪えられなかったので、
「失礼致しました。」と、せわしなくいって、立ち去ろうとすると、
「ちょっと、恐れ入りますが……」と、ひどくやさしく夫人は、新子を呼び止めた。
 新子が振り向くと、夫人はステンド・グラスの張ってある白い卓子《テーブル》の上の、青磁の花瓶を指しながら、
「何でもようございますわ。これに、花をさして持って来ておいて下さいませんか、庭に何かあるでしょうから。」
「はア。」新子は、花瓶をとり上げて、早々に部屋を出た。
 新子は、文句を云われた後に、たちまち用事をいいつけられたので、驚きながらも、庭へ出て、ポンポン・ダリヤばかりを切って、夫人の部屋へ持って行くと、夫人は、
「ありがとう。それから、これを切っておいて下さいません。」と、ペイパ・ナイフと「英国近代短篇集」という書籍をさし出した。
[#改ページ]

  不当な謝礼




        一

 新子は、しばらく夫人の傍で切られていない本の頁《ページ》を切っていた。
 夫人は、新子が傍にいることなどは、すっかり忘れたように、スリー・キャッスルの細巻を吸いながら、綺麗なファッション・ブックを漫然とながめているのだった。
 新子は、切り終った本を卓の上に、そっと置いて、
「これでよろしゅうございましょうか。」と、丁寧にいうと、
「はい。」と、夫人は、礼もいわず、ふり向きもしなかった。叱言《こごと》をいった上に、人を使ってと思うと、新子は少し苛々《いらいら》して部屋を出た。
 夫人は高飛車にかまえていながら、人使いは巧みな女性らしい。この分だったら、明日から、どんな風に使い廻されるかわからない、と新子は一方の肩をすくめて考えた。
 六時になった。軌道の上を走っているように正確な、この家の生活は、六時になれば食堂に集まって夕食なのである。
 今宵から、夫人の前で、かしこまって、子供達とも笑い興ずることも出来ずに、ご飯をたべるのかと、新子が考えている矢先に、先刻の女中が上って来て、また
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