川が、スワ事こそと、あわてて訊き返すと、夫人は、良人の顔を、ジロジロ見ながら、言葉はあくまで、尋常に、
「どう、私、新子さんにもう一度、家へ来てもらおうかと思っているの……」と、云った。
「家へ、もう一度!」意外な言葉に、前川は、鏡に映るわが顔へ、思わず声を出して呟いた。
「ほら、あの南條さん。貴君も、随分ごひいきであったじゃないの。」夫人の声は、浮々とはずんでいた。
「しかし、あの人をなぜ呼び戻すのだ!」前川は、全く夫人に、飜弄《ほんろう》されている形だった。
九
「だってねえ。」夫人の声は、極めて柔かな響きを持っていた。「私、随分探したんだけど、結局南條さんくらい、いい人ないと思うんですもの。」
前川は、夫人の表情を読みたくなり、思わず洗面所《トイレット》から、身を出しかけた。が、また思い直して、手先をゴシゴシと洗い始めた。
「それに、子供達も、時々思い出して、淋しがっているようですし、貴君さえよければ、私、明日にでも手紙を出して、あの人に来てもらいたいの。貴君、宿所ご存じでしょう、貴君がご存じなけりゃ、路子さんに訊いてもいいの。」
前川は、夫人の一言一言に、誘導訊問をする刑事の心理のように、意地のわるい計略が、かくされているように思われ、これは一問一答と云えども、油断をしてはならないと思った。
新子の現在を知ってか知らずにか、自分と新子との関係を、嗅ぎつけているのかいないのか……前川は、酒の酔もすっかり吹き飛ばされて、酔ざめの後の常より一倍冴える頭の中で、彼も夫人の心中を計るべく、作戦を考えねばならなかった。
「ねえ、貴君もご異議ないでしょう。あの人に、もう一度来てもらうこと……」
(本気で云ってるのかな)と、前川もつい思った。しかし、つねに肚と口との違う、しっかりもの[#「もの」に傍点]の夫人である。彼は、少し苛立たしくなって来た。
「ねえ。」夫人は、しつこくくり返した。
「僕は、不賛成だね。」前川は、とにかく受け返した。
「あら、どうして……貴君、前には随分ごひいき[#「ひいき」に傍点]じゃなかったの……」
「………」前川は、返事に窮して、また手を洗った。
「ねえ、いつまで顔や手を洗っていらっしゃるの……」
「うむ。」冷静を装っているつもりでも、つい取り乱したと、前川は後悔しながら、さりげなく、彼としては幾分|傲然《ごうぜん》たる態度で、トイレットから出て来た。
「ねえ。あの人に来てもらいたいわ。手紙を出しても、いいでしょう。」
「一度、よしてもらった人に、また来てもらうなんて、可笑《おか》しいじゃないか。それよりも、高等師範の学生か何かで、適当な人は、いくらでもあるだろう……」前川は、一語一語に気をつけ、芝居の台詞《せりふ》でもいうように、静かに云いながら、夫人の眼を探るように、ひたと視線を合わした。
「だから、よさせたのは、私軽率だったんだから、私あの方と会って、潔《いさぎよ》く謝ってもいいのよ。でも、可笑しいわねえ、貴女が反対をなさるとは、おほほほほほ。」
夫人は、前川の窮状を知っているかのように、気持よげに笑った。
十
前川は、笑う夫人の眼の中に、邪悪な喜びの影を見たように思った。何か新子について聞込んだに違いないと思うと、今宵くちづけの感激も消えはてて、当惑せずにはいられなかった。
「でもあの方、まだ職業が見つからないで、お困りになっているのじゃないかしら……もしそうだと私、いよいよ呼び返してあげたいの……」夫人は、まことしやかに、眼を輝かした。前川は、容易に動かされず、
「僕はとにかく賛成しない。他の人を雇った方がいい。」と、藪蛇《やぶへび》にならないように簡単にいった。
「でもなぜ新子さんを、もう一度呼んだらいけないの?」
「そんなハッキリした理由はないさ。あるはずがないじゃないか、しかも一度、貴女と感情の衝突をした人を……」
「だって、それは私が悪いと思うから、謝るつもりなの……」
「しかし、謝ってもらって、来たところが、あの人もいい気持はしないだろうし、貴女だって、きっと何となくそれに拘泥《こだわ》るだろうし……」
「貴君妙だわ。とても、妙だわ。貴君が反対なさるなんて妙だわ。」夫人は、前川の鼻の先で、チラチラ笑いながら、つぶやくように云った。
妙だと云われれば、妙に違いないだろうと思うと、前川はいよいよ不愉快になってだまってしまった。それにしても、片足をあげれば、その片足に、他の足を挙げれば、その足に、とりもち[#「とりもち」に傍点]のようにくっついて来て人を窮地に陥れて喜ぶような夫人の性癖を、今更のように、憎々しく感ぜずにはいられなかった。
「じゃ、私路子さんと、相談して、とにかく、新子さんの内意を訊いてもらうわ。向うで、来たいといえば、貴君だっ
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