は本郷弥生町の家に帰って来た。
ささやかな門のついている暗そうな借家であった。
狭い玄関に上りかけたとき、母が出迎えて、
「お帰り、ほんの一足ちがい――新子さんが、八時半頃お見えになって今しがたまで、いらっしたのよ。」と、云った。
「へえ!」内心の驚きと口惜《くや》しさとをこらえて、無愛想に云うと、二階の書斎へ上って行った。美和子などにつき合ったばかりにと思うと、新子にひどくすまない気がした。
二階は、八畳一間。床の間に、清々《すがすが》しい白百合と、根じめにりんどうの花が生けてあった。花をよく持って来てくれる新子が、自分を待つ間の手ずさみだと思うと、銀座行きがひどく後悔されて来て、何かしら自分と新子との愛情に凶相が萌《きざ》したような気がした。
彼は、黙々として卓子《つくえ》の前に坐った。と、手元に彼の使っている白い封筒がふくらんで、きちん[#「きちん」に傍点]と、置かれているのに気がついた。
思いがけない嬉しさに、救われたような気がして、乱暴に封を切った。
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私とうとう働くことになりましたの。家庭教師です。今日、お目見得、多分採用される見込み、前川準之助って実業家の家……ご存じないかしら、私のお友達のお兄さんよ。
子供さん達は、みな素直な良い子らしいの。ただ前川夫人が少し難物、一ひねりも二ひねりもありそうな人物。でも、私おおいに奮闘してみるつもり。私が、働かないと、だんだん家中干ぼしになる怖れあり、貴君は家庭教師など、不賛成かもしれませんが、どうかあしからず。
二、三日の内に軽井沢へ行きます。貴君もお忙しいようだし、多分秋までお目にかかれません。お花を買って来て、よかったわ。あまり、このお部屋殺風景じゃございません? 物干しに、朝顔の鉢でも、お置きになったらどう? 私のような、麗人を迎えるのに、ふさわしくないわ。レコードだけじゃ、物足りないじゃありませんか。
でも、レコード聞かせて頂いたわ。ラローのスペイン交響曲、とてもいいわ。貴君を待っている気特にぴったりしていたかもしれません。
お煙草、チェリイが一日に四箱ですって、お母さまに伺ったのよ。二箱になさっちゃどう?
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[#地から2字上げ]しん子
直巳様
美沢は、美和子につき合った浮気心を、我ながらいよいよ情なく思った。
六
新子は、十一時まで美沢を待っていた。かの女は、美沢が近頃猛練習で、忙しいのを知っていたから、今宵会わなければ、軽井沢へ行くまでに、会う機会がちょっと得られないことを知っていた。
しかし、三時間近く待っていてさらにそれ以上待つのは、自分の心の底を見すかされるような気がしていやだった。
十二時近くまで未練がましく待って、それでももし帰って来なかったりしたら、いよいよ引っ込みがつかなくなると思ったので、十一時になったのをキッカケに、体《てい》よく美沢の母に暇乞いして、帰途についた。
新子は、美沢と交際《つきあ》ってから一年以上になるが、その間に美沢の欠点も美点も、すっかりのみ込んでいた。美沢が芸術至上で、自分の芸の完成にどんどん邁進《まいしん》して行くところは好きだった。金は無くても、芸術貴族として、世俗に対し、気むずかしそうに、眉をひそめているところなど好きであった。しかし、それでいて彼女の現実的な考え方から、時々美沢に、「ヴァイオリニストで、ちゃんと一家を持って行っている人は、日本に何人いるのかしら。」など云って、美沢をいやがらせていた。
実生活でも、美沢は質屋へ行った話をしながら、時に驚くほど高価なネクタイをかけていたり、趣味のいいステッキなどを持っていた。
貧乏でも、貧乏たらしくないところなど好きであったが、しかし結婚すべき良人《おっと》としての美沢を考えると、前途は遼遠としていた。
どちらかに、馬車馬のように猛進する情熱のない限り、金のないインテリ階級にとって、結婚難は現代の宿命の一つだった。
だから、二人とも結婚について語ったり、愛について語ったことはなかった。しかし、二人の間は美しいひもに結ばれているように遠慮のない交際ぶりから、ちょっといさかいをしても、一週間も経てば、元通りになり、しばらく手紙も書かず、会いもしないでも、常にお互に快く思い起していた。
だから、会わずにこのまま、軽井沢へ行ったところで、二人の間にどう影響するという間柄ではなかったが、でも新子は何となく物足りなかった。
電車から降りて三町ばかり、もう人通りの少くなった路次を通って行く、新子の心はさびしかった。
と、ハイヒールの靴音が、大またに自分を追うて来たかと思うと寝しずまった町並の家の安眠妨害になりはしないかと思われる大声で、
「あら、新子姉さんじゃないの。今頃、お帰
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