方に放牧の牛を見に行ったのを機会に今日の午後までに、宿題の一つである(夏休みの一日)という綴方を作っておくように、指切りげんまん[#「げんまん」に傍点]までして約束した。
小太郎は、二時の授業時に、笑いながら、半截《はんせつ》の用紙に、それでもやっと一枚と二行くらい書いて来て、新子にさし出した。
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お父さまが、「牛を見に行こう」と、おっしゃったので、僕は洋服をきかえたり、サンドウィッチを作ったり水筒に紅茶を入れてもらったりして、仕度をした。軽便を降りて牧場まで歩いて行くと、暑くて、苦しかった。日向《ひなた》の草原に、牛が寝たり、立ったりしていた。牛の子もいた。お父さまが、「牛についていってごらん」と、おっしゃったので、僕は「四足獣、草食獣、複数の胃で、はんすうする」と、いった。
するとお父さまがニコニコした。
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よく見ていると、仕度という字を、一度平仮名でしたく[#「したく」に傍点]と書いてから、消して、仕度と直してあった。
この字は、四、五日前に、新子が支度の方が正しいと、教えたばかりであったので、彼女は、微笑を浮べながら、しかしややきびしい調子で、
「たいへん、お上手だけれども、一字小太郎さんらしくもない間違いをしていらっしゃるわ。ね、仕度は、支度の方が正しいと、この間云ったでしょう。」と、新子は鉛筆で、白い紙の端に支度とかいてみせた。
いつも、素直な小太郎であるが、嫌いな綴方を、やっと自分で作ったのに対し、とやかく云われたことが、すぐかん[#「かん」に傍点]に触ったらしく妙に意固地になり、てれくさくなったらしく、
「僕、それよく分らなかったから、平仮名で書いておいたの、そしたら、ママが本字を教えてくれたんだもの。それでも、いいんだよ。」と、子供らしく、喰ってかかって来た。
「ええ、普通によく仕度とかいてありますけれど、それは間違いなんですよ。やっぱり支度と書かなけりゃ。」
「だって、僕が間違ったんじゃないや、僕は平仮名で書いておいたんだもの。ママが悪いんだ、ママに怒って来る!」と、云うと小太郎は早くも立ち上って、(アッ!)と云う間もなく、飛鳥のように部屋を飛び出した。
二
「小太郎さん、お待ちなさい!」と、新子はあわてて、後から部屋を出て、呼び止めたが、小太郎は綴方《つづりかた》の紙をヒラヒラさせながら、廊下を、首をすくめ、肩を怒らしたふざけた恰好で弾丸のように走って、二階への階段を一足飛びに上りきってしまった。
新子は、小太郎の後姿《うしろすがた》を見送りながら、これは大変なことになったと思ったが、今更|施《ほどこ》すべき策がなかった。
「ママの嘘つき!」
「何が……」
「仕度って字は、こう書くんじゃないって!」
夫人は、美しい眉をよせて、
「ママは、その字ばかり使っていてよ。それ以外に、したく[#「したく」に傍点]と、どんな字を書くんだろう。」
小太郎は、新子が書いた字を、母に示しながら、いった。
「こう書くのが本当だって、だから僕仮名で書いておいたのに、ママが余計なこというんだもの。ママなんぞに、直してもらわなければよかった。」
夫人の眉は、たちまちピリピリと吊り上って、
「そうお。それで、南條先生が、わざわざ貴君《あなた》を、ここへよこしたの。」
「ううん。」小太郎は、騎虎《きこ》の勢い、そう答えた。
「じゃね、貴君の勉強の時間が了ったら、先生にお話があるから、この部屋に見えるようにいって頂戴!」
「うん。」
母の部屋から、バタバタとかけ出した小太郎は、階段を降りようとして、下から不安そうに、上を見ている新子と顔を見合わした。
「僕、ママにそう云ったよ。だって僕が間違ったんじゃないんだもの。」と、声が高かった。
母夫人は、小太郎の声に、新子が、すぐ階下にいると知ると、部屋から出ると、
「南條先生、下にいらっしゃるの?」と、小太郎に云った。
「うん。」
「じゃ、今の方がいいわ。すぐ、先生にママの部屋に来るように云って頂戴!」
小太郎は、母の険しい言葉を聞くと、ようように、自分が調子に乗り過ぎて、とんだ失策をして、南條先生を窮地に陥れたことに気がつくと、かなしそうに新子を見おろしながら、階段を下りて来てさっきとはまるで違って、しょげ切った容子《ようす》で、
「ママが、先生にご用だとさ……」と、すまなさそうに云った。
三
今更、小太郎を咎めるわけにも行かず、といって自分のしたことを後悔する気にもなれず……とはいえ、新子にとって思いがけない災禍だった。
小太郎が、不安そうに新子の顔を、見上げるのを、
「じゃ。ちょっと行って来ますから、貴君はおさらいをしていて頂戴ね。」と、やさしくいって二階へ上って行った。
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