柔らげるように、たちまち子供らしく無邪気に振舞うのであった。
「私、動物園とても好きよ。だから、今の活動もとても見たかったの。ほんとうに、今日は楽しかったわ。私、お友達がみんな避暑に行っているから、とてもつまんないの。新子姉さんはいないし、圭子姉さんは、芝居に夢中だし……」
「しかし、美和子ちゃんは不良だね。ここから、弥生町へ抜ける道を知っているし、四谷に住んでいて、梅月の蜜豆なんかたびたび喰べに来るのかい?」
「だってえ、そりゃ西片町にお友達があったのよ、それから桜木町にも仲よしがいたんだもの。だから、この道は随分歩いたのよ。」
「だって、西片町から桜木町なら、逢初橋へ出た方が近いじゃないか。」
「そら、用事のときはあっちを歩いたわよ。散歩のときは別よ。散歩って近道することじゃないでしょう。」
 二人は、そんな無駄口を利きながら、清水堂の下の石敷の小径を歩いていた。
 そこらあたりは、樹の茂みで闇が濃く、一人の人にも会わなかった。
「貴君は、不良だなんて云ったけれども、善良な紳士ね。」と、美和子は云った。
「なぜさ……?」
「なぜでも、それに臆病ね。」
「何を生意気な、子供のくせに……」
「皆、私を子供と云うわ。でも、私もう子供じゃないわよ。何でも分っているのよ。」
 彼女はちょっと立ち止まって、
「ねえ。美沢さんも、新子姉ちゃんがいないで、寂しいでしょう。だから、私ちょっと慰問に来て上げたのよ。ほんとうはそうなのよ。」
「何を下らんことを!」
 美沢は、本気に少し腹が立って来たので、美和子を振り捨てるように、足早に歩き出した。

        八

 美沢が、足早に歩き出すと、美和子はすかさず、追いかけて、
「ねえ。」と、改めて彼の腕に縋《すが》りながら、
「私、美沢さんに初めてお会いしたの、去年の三月よ。」
 美沢が、だまっていると、いよいよ美沢の胸に首をすり寄せながら、
「貴君、覚えていない?」
「覚えているよ。麹町の家でだろう。お茶を出して、すぐ逃げてしまったじゃないか。それから二、三度会ったけれど、いつも居るなと思う瞬間にパッと逃げて行ったりなんかして、ふざけたお嬢さんだと思っていたよ。」
「どうして、逃げたか知っている?」
「そんなこと知るもんか。」
「貴君に顔を見られるのが、とてもきまりが悪かったからよ。その頃から、私貴君に顔を見られると変だったのよ。」
 組んでいる腕と腕との間が、しとしと汗ばんで、美和子の言葉を聞いていると、彼女の軽い腕が、千鈞《せんきん》の重みを持って来る。
「ねえ。」美和子は、また立ち止った。
「何だい。」
「貴君が欲しいと云えば、私あげるものがあるのよ。」
「ええ。」
 思わず、その顔を見ると、その暗い闇の中で、美和子は眼をつむって、桜んぼの堅さを思わせるような型のよい愛らしい唇を、心持上へさし出して……。
 美沢は、身体の中で、何かが砕けて行くような気がするのを、グッとこらえながら……これは処女ではないのだろう。
(もしそれならちょっとだけホンのちょっとだけ。花の匂いを嗅ぐだけなら)そうした意慾が、チョロチョロ燃えた。
「度胸がないのねえ。」
 木の実のような赤い唇が、チラチラ白い歯をこぼして……。その言葉で、美沢は、鞭打たれたように、いきなり抱き寄せると、一瞬天も地もなかった。二人は、闇にとけたように……。
「厭《いや》。厭。そんなのいや。」
 いきなり、美和子は美沢を突き退《の》けると、三、四間先へ走った。
 夢見心地を、つきのけられたのが、思いがけなかったので、息を弾ませながら、追いついた。
 石燈籠が、ずらりと両側に並んで、池の端から、下谷の花柳界の賑《にぎわ》いの灯が、樹間《このま》に美しく眺められた。
「ただ、お友達の印だけの、かるい接吻《ベーゼ》がほしかったのに……まるで、恋人同士みたいなこと、するんだもの、あんなのいや。」
 近寄ると、美和子の顔が、頼りなげな、泣き出しそうな感じである。
 一擒一縦《いっきんいっしょう》! 子供と油断したが、これは天性の娼婦《コケット》である。
(しまった!)と、美沢は刹那に感じた。
[#改ページ]

  突風来




        一

 祥子《さちこ》は、綴方《つづりかた》や童謡などを好んで、即興的につくるのに、小太郎は面倒くさがり屋で、数学や理科が好きで、国語ことに綴方など、大嫌いという性質であった。
 だから、夏季休暇中の宿題となっている綴方はもちろん、一日一日の日記帳の小欄に、たとえば(町でも屈指の財産家となる)とか(まことにもっともな話である)などという断片的な文章を用いて作る短文などは、一から十まで新子にまかせたきりである。そして、自分では何もしようとしないので、昨日《きのう》小太郎がパパに連れられて、国境平の奥の
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