だった。
女中が、はいって来て、(旦那さまが、お呼びです)と、云った。
二階の書斎へはいって行くと、準之助氏はひどく嬉しそうで、向き合っている新子の方まで、つい頬をほころばしたくなった。
「今、僕部屋をのぞきに行ったの、知っていますか。」
「いいえ、存じません。」
「子供達が、貴女をまるで、母親のようにして、甘えているんで、僕は扉《ドア》を開けずに、上へ帰って来たんですよ。」新子は準之助氏の視線を避けるようにして、答えなかった。答えようもなかった。
「僕は貴女にお礼をしたいんです。」
「お礼なんて――私が、何を致しましたかしら、祥子さんのご病気を、私が看病するくらい当然じゃございませんかしら。」
「いや、当然なことをしない女だって、沢山いますからな。僕にお礼をさせて下さい、でないと、僕の感情が、どんなふうに爆発するか分りませんよ。」
「そんなこと、おっしゃっては困りますわ。」
「じゃ、お礼を受けとって下さるでしょう。」と云って準之助氏は、自分用らしい白い角封筒を新子の前にさし出した。
新子は、それを断るには、たいへんな努力が要ると思ったので、素直に受けとった。
内懐《うちぶところ》にしまって、子供達の部屋に降りて来て、祥子の相手をしていたが、昼食のとき自分の部屋へ帰ったとき、開けてみると、それは、思いがけない不当な大金であった。
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戯恋馬上行
一
ここらあたりは、スカンジナビアかどこか、北欧の景色に似ているという、薄白く霧のかかっている草野原で、土地の女の子が撫子《なでしこ》をつんでいる。
「このへんでお休みになりませんか。」
若さで、はち切れそうな青年紳士が、先へ打たせている同じ馬上の夫人に呼びかける。
「押出しまで行きましょうよ。休みなら千ヶ滝の坂の下へ、馬を預けて、ホテルでお茶をご一しょに、その方がいいわ。」
競走馬上りと見える流星栗毛のスマートな牝馬《ひんば》に、純白の乗馬服を着た夫人は、大公妃のように跨《またが》っている。しかし、声は新子に話す時などとは違って、小娘のようにはずんでいる。
つばの広い帽子の下で、双眸《そうぼう》がはれやかにまたたき、さわやかな風に頬をなぶらせ、夫人はまるで別人のようにはしゃいでいるのだ。
二、三町ばかり、軽い速歩《トロット》で進むと、眼下に新しい景色が展《ひら》
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