されるように、プラットフォームに降りてしまった。
 ベルが鳴った。
「さよなら。」
「気をつけてね。」
 車が動くと、見送人は吹き寄せられたように取り残される。はしゃいでいる美和子は、汽車と一しょに走って、フォームのはずれまで来て手を振った。
 新子は、とうとう美沢とは会わなかった。美沢は、前夜の手紙に対し返事を速達でよこし、急に会いたいといって来たが、それと同時に軽井沢行きが定って今日の出発となった。
 会いたくもあったが、しかし会わないで行く方が、余情が多いようにも思った。
 どうせ、簡単に結婚できないとすれば、ある間隔を保っていた方が、お互のためにいいのではないかと思った。
 それに、美和子などが、あんな調子で甘えかかっていても、そうやすやすとは心をうごかす美沢でないことを、新子は信じたいと思った。
 だから、美沢のことは、比較的安心が出来た。心配なのは、やはり準之助夫人である。昨日《きのう》夫人からもらった採用通知の電話の最初の言葉なども、嫌だった。
(主人ともいろいろ相談致しましたが、こちらはどちらでもよろしいんですけれども、貴女《あなた》が非常にご希望のようですから……)という切り出しだった。何事にも高飛車に、上手《うわて》から出ようという態度が、二、三分間の電話の中でも、新子を不快にした。

        二

 生活への最初の出発、昔からいう初奉公の不安、それに難物の夫人、東京を離れた刹那《せつな》から、新子はやはりかるい物思いに沈んだ。
(あの夫人と衝突して、半月や一月でよすくらいなら、いっそ最初から行かない方が……)と、考えたりした。しかし、夫人が昨日の電話での物のいいぶりや態度でこちらを不愉快にさせながら、
(お礼は、五十円くらいは、さしあげられると思いますの)と云ったことは、彼女をよろこばした。一時は、夫人に対する不快を忘れさえした。
 その上、新子は子供に好かれる性質《たち》であったし、彼女自身子供に愛着を感じ、子供と心から遊べる性質《たち》であった。
 だから、前川家で、一夜晩餐を共にしただけで、もうすっかりお仲よしになり、帰りには彼女の肩につかまった小さい兄妹を考えると、彼女は頼もしくも思えたし、ある楽しみをも感じた。
 高崎あたりから、うすぐもりの空となり、熊の平では、かしこの峰、ここの谷に、うす白い霧がまい下りて、ひんやりと浮世ば
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