「美沢さんという方、思いのほか親切な方ね。」と、美和子は、楽しげなといき[#「といき」に傍点]のようにいった。

        八

 姉妹が帰ったとき、母はまだ起きていた。
 圭子は、二階で勉強しているとみえて、階下《した》へ降りて来なかった。
 美和子は、すぐ二階へ上ってしまったが、新子は母と二、三十分、着物を着換えながら、前川家のことなど、少し話してから自分の部屋へ上っていった。
 美和子は、新子の部屋で、一しょに寝ることになっているので、もう床の中へはいり、うつぶせに雑誌を見ていたが、後からはいって来た姉を上目づかいで見た眼には、まだ楽しそうな微笑があふれて、もっと、何か話したそうである。
 新子は、自分が美沢の家で、待ちくらしている間、妹が美沢と楽しく遊んでいたのだと思うと、心の平静が失われて、この上不愉快なことを聴くまいと、クルリと背を妹に向けて、床にはいった。
「ねえ。お姉さま!」美和子が、姉の背中に話しかけた。
「ほら、靴下が破けたから、買いたいって、云っていたでしょう。相原さんのお家を出てから、気がついたの。だから、私美沢さんとお別れして銀座へ行こうと云うと、あの方、ご一しょにいってあげましょうかって、……円タクを停めて下さったのよ。そして、靴下を買ってから、ジャーマン・ベイカリでお茶のご馳走になったの。あの方見かけよりは、ずーっとご親切ね。家へいらっしゃる時なんか、つーんとしていていやだったけれど、二人ぎりでお交際《つきあい》すると、とてもいいわ。気に入っちゃった。フレドリック・マーチの小型みたいで……」
 新子は、背中一杯に針をさされるような気がした。
「お姉さま、聴いていらっしゃるの……」と、新子の沈黙をゆりうごかしてから、独り言のように、
「美沢さん、この頃、とても忙しいんですって――新協では、才能次第で、グングン月給が上るんですって……だから、美沢さんは夢中で勉強しているんだって、いっていたわ。明後日放送があるんですって、だから明日は八時までに練習所へ、顔を出さなきゃいけないんですって……練習所は、荏原《えばら》の方だから、早起きしなければいけないんですってね……」
 美沢の噂《うわさ》をするのなら、せめて(お姉さんによろしくといっていたわ)とか、(お姉さんに会いたいといっていたわ)とか、あっていいはずである。美沢は、そんなこと、一言
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