新子は、十一時まで美沢を待っていた。かの女は、美沢が近頃猛練習で、忙しいのを知っていたから、今宵会わなければ、軽井沢へ行くまでに、会う機会がちょっと得られないことを知っていた。
 しかし、三時間近く待っていてさらにそれ以上待つのは、自分の心の底を見すかされるような気がしていやだった。
 十二時近くまで未練がましく待って、それでももし帰って来なかったりしたら、いよいよ引っ込みがつかなくなると思ったので、十一時になったのをキッカケに、体《てい》よく美沢の母に暇乞いして、帰途についた。
 新子は、美沢と交際《つきあ》ってから一年以上になるが、その間に美沢の欠点も美点も、すっかりのみ込んでいた。美沢が芸術至上で、自分の芸の完成にどんどん邁進《まいしん》して行くところは好きだった。金は無くても、芸術貴族として、世俗に対し、気むずかしそうに、眉をひそめているところなど好きであった。しかし、それでいて彼女の現実的な考え方から、時々美沢に、「ヴァイオリニストで、ちゃんと一家を持って行っている人は、日本に何人いるのかしら。」など云って、美沢をいやがらせていた。
 実生活でも、美沢は質屋へ行った話をしながら、時に驚くほど高価なネクタイをかけていたり、趣味のいいステッキなどを持っていた。
 貧乏でも、貧乏たらしくないところなど好きであったが、しかし結婚すべき良人《おっと》としての美沢を考えると、前途は遼遠としていた。
 どちらかに、馬車馬のように猛進する情熱のない限り、金のないインテリ階級にとって、結婚難は現代の宿命の一つだった。
 だから、二人とも結婚について語ったり、愛について語ったことはなかった。しかし、二人の間は美しいひもに結ばれているように遠慮のない交際ぶりから、ちょっといさかいをしても、一週間も経てば、元通りになり、しばらく手紙も書かず、会いもしないでも、常にお互に快く思い起していた。
 だから、会わずにこのまま、軽井沢へ行ったところで、二人の間にどう影響するという間柄ではなかったが、でも新子は何となく物足りなかった。
 電車から降りて三町ばかり、もう人通りの少くなった路次を通って行く、新子の心はさびしかった。
 と、ハイヒールの靴音が、大またに自分を追うて来たかと思うと寝しずまった町並の家の安眠妨害になりはしないかと思われる大声で、
「あら、新子姉さんじゃないの。今頃、お帰
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