》をのせた人力車の梶棒に、危うく突き飛ばされそうになって、身を避けると、場所にも在らず、悲しくなって涙がユルユルと流れて来た。
 こんな気持ですぐお店へ帰って、美和子と顔を見合わせるのがいやになって、銀座の電車通りの方へ、一人フラフラと歩き出した。
 一思いに、ワッと泣けてしまえば、さぞせいせいするだろうが、いろいろ複雑な気持が入り交じっているだけに、悲しみは重く鈍く、胸にわだかまっていて、何も持っていない両手に、頼りない淋しさをそそられて、両方の袖口に、手を差し入れて、我とわが胸を抱くような姿勢で、新子はネオン・サインのにべもなく、続いている銀座の街を、それから二十分ばかり、ぼんやり歩いた。やがて致し方のないことであるというあきらめに、悲しみを心の片隅に追いやって、もう客も来ているであろうバー・スワンへ、戻るべき道を辿《たど》ったのである。
 お店へ帰ってみると、客は三組ばかり来ていたが、美和子はと思って、見廻すと、先刻まで自分と美沢とが、さし向いになって坐っていたボックスに、思いがけなく前川と、さし向いになって坐っているのである。
 前川が、こんなに早くと思っていなかっただけに、新子は少しあわてたが、前川が向うむきになっているのを幸い、外のお客にはちょっと目礼しただけで、二階の自分の部屋へ逃げるように上って来た。
 さっきの美和子の、美沢に対する態度を見ると、もう美沢などには何の執着もないことが分ったので、また美和子らしい出鱈目さで、前川に対してどんなことをやり出すかも分らないと思うと、一刻も油断のならぬような気がしたが、といって美和子と争って、前川のご機嫌を取ることは、死んでもいやだと思ったし、美和子が前川の卓子《テーブル》へ行っている以上、近づくのも汚らわしいような気がしたが、それでも、そのままに傍観するのにはあまりに焦々《いらいら》して来る心だった。新子は、それがハッキリ嫉妬であることが、自分で分った。なにか心も身体も疲れて、壁に背をもたせ、両足をなげ出して坐っていたが、階下《した》のことが気にかかりながら、どうしても降りて行こうという気持にはなれなかった。
 二十分間もそのままの姿勢でいると、
「お姉さま、降りていらっしゃらない? 皆様お待ちかねよ。」と、声だけは天真爛漫に、美和子が階下から呼んだ。

        四

 新子が、ありあまる思いで黙っ
前へ 次へ
全215ページ中162ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング