を解しないため、路傍の花に心を奪わるることなく、上部《うわべ》だけは善良な良人であった。だから、綾子夫人は、良人を信じ切り、良人で得られない刺戟は他の男性から求めていた。
 そこへ突然、新子が出現したのである。今までは(悪妻である。イヤな女性である。しかし、一旦結婚した以上、あきらめる外はない。こういう妻に対して、辛抱するのも、また一つの人生修行である)と、考えていた彼の眼に、たちまち華やかな一つの幻覚が浮び、遠く桃源の里を望み見たような心のときめき[#「ときめき」に傍点]を感じはじめ、生活が急に生々《いきいき》となって来たのである。
 が、不意に時節到来、今日お互に緊張し切迫した気持で、散歩しているとき、雷雨に逢い、平調を失った――あるいは平調を失う口実を得た彼は、思わず新子の顔を腕の中に抱いてしまったのである。
 にわかに、新子を愛人と云ってもよいほど、身近に獲《え》てしまった彼は、自ら非常な覚悟をしなければならなかった。
(このことで、新子を絶対に不幸にしてはいけない。どんな犠牲を払っても、あの人を幸福に!)と、彼はそう思った。彼が以前読んだ英国の小説に(恋愛はしてもいい。しかし、そのために相手を不幸にするな。それが、恋愛をする場合の男子の心得である)と説いたのがあった。
 妻には、絶対に悟られないように、そうして新子さんを出来るだけ、幸福にするように、こうなった以上、それが自分の義務だと準之助氏は考えていた。
 浴室《バス》から上って、セルを出させて着、食堂へ来てみると、幼い兄妹は、食器棚の後《うしろ》に付いている大きな鏡に向って、何か面白そうに騒いでいる。
 その子供達の姿を見ながら、自分とああなった以上、新子が自分の家族達と同じ屋根の下に住むことは、あの人にとって不愉快ではないかしら、よき愛人を獲たことは、子供達のよき家庭教師を失うことになるのではないかしら、……自分は結局子供達のもの[#「もの」に傍点]を奪ったことになるかしらなどと、思いはしきりに新子の上に置かれてあった。
 と、扉が開いて、夫人がはいって来て、席に着いた。見ると、彼女は外出着を着て、美しく化粧している。

        六

 良人は、妻に対して傷もつ脛《すね》の、いつもよりも優しく、
「どこかへ出かけるの……」と訊いた。
「ええ。ルーシイさんのところに、サッパー・ダンスがあります
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