いと存じますのですが……」と、細々した声で、詫び入ると夫人はさも面白そうに、陽気な表情で、ながめながら、
「南條さん、貴女《あなた》、主人とこのことで、お話しになりましたの?」と、明るく訊ねた。
「はア。」と、思わず返事したが、すぐハッとなっていると、夫人はかまわず続けた。
「主人と、いつどこで、お話しになりましたの?」
 新子は、ギョッとして、眼顔で夫人の心中を探るように、顔を上げた。
「南條さん、貴女、さっきの夕立のとき、どこに行っていらっしゃいましたの。」友達のように、隔てのない物云いで、夫人の眼はいたずらっぽく、輝いていた。
「旧道の方へ出かけておりまして。」新子は、よんどころなくそう答えた。
「そうお。じゃ、その道で、主人とお会いになってお話しになりましたの。」
「はア。」退引《のっぴき》ならず、新子は真実の先端を、チョッピリ夫人に打ち明けた。
「そうお。」夫人の笑顔が、急に権柄《けんぺい》ずくな常の顔に変った。
 つと立ち上ってビクトロラの傍に行って、またスキーパの曲に、針をあてがうと、ビクトロラに寄りかかるような姿勢をしながら、嘲笑を浮べて新子に話しかけた。
「貴女の散歩は、時を選ばないのね。おかげで、主人は、ハンチングは風に取られたというし、そりゃビショぬれで、ひどい目に会って、帰って参りましたよ。」
 新子は、身内から、サッと血が引いて行くような感じだった。
「南條さん。さっきは、貴女からひまを取るというお話でしたが、今度は私から、今すぐひまを取って頂くことに致しますわ。どうぞ、出来るだけ早く、この家からお引き取り下さい!」
(|出て行け《ゲット・アウト》!)西洋の映画にあるとおり、扉《ドア》を指ささんばかりであった。

        五

 祥子《さちこ》の誕生した頃には、すでに前川夫妻の間には、大きな愛情の間隙が、出来ていた。
 一つの屋根の下に住み、外面はあくまで夫妻であったが、しかし良人《おっと》は、心の中で妻に、さじを投げていた。が、生得上品な性質である上に、外国に長くいたために、女権主義者《フェミニスト》であり、平和主義者であり、煩わしいことが、嫌いであるので年々悪妻の強さを発揮している綾子夫人を、当らずさわらず、取り扱うことに馴れてしまったのである。
 その上、愛児の生長が彼を家庭につなぎ止めているのと、酒をたしなまず、花柳界の趣味
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