、路子は立ち上って奥に入った。
 新子は、ひとりとり残されて、路子の云う義姉《あね》のことを考えていた。
 すると、一度しか会ったことのない前川夫人の面影が、おぼろげに頭の中に、浮び上って来る。
 きかぬ気らしい張りのある眼や、唇元《くちもと》や、背の高い、つんとした貴族的な態度までが、路子の言葉を裏づけているような気さえした。
 そして、家庭教師などいう仕事も、決して生やさしいものではないとつくづく思った。

        二

 そんなことを考えながら、新子が豊かに生い繁った庭の樹立に、眼を移してしばらくぼんやりしているときだった。
 扉が、つつましく滑らかに開いて、人かげがした。新子が、ハッと視線を上げると、思いがけなくも、路子の兄の準之助氏が、独り落ちつき払った愛想のいい物腰で、部屋の中へはいって来た。
 新子が、あわてて立ち上ろうとすると、
「いや、どうぞそのままで……」と、気持のいい潤いのある、男らしい中低音《バリトン》がそれをさえぎった。
 でも、新子は立ち上って、意味もない微笑と笑顔で、初対面の挨拶をすませると、準之助氏は、椅子をちょっとずらせて、新子の真向いに腰をおろした。
 上品に刈りこんだ頭、背がすらりと高く、色白く眼が柔和で、四十歳以上と聞いていたのに、三十代に見える若々しさであった。
 どことなく明治文壇の鬼才川上眉山の面影あり、近くはアドルフ・マンジュウの顔を、少し四角くしたような、瀟洒《しょうしゃ》たる紳士であった。
 口の重い人らしく、何もいいかけないので、新子はかるく腰をうかせると、
「路子さんまで、お願いしておきましたが、私で勤まりますようでしたら……」と、挨拶した。
「はあ。今日は、雨が降りますのに、ご苦労でしたね。今子供達も参るでしょうが、どうもわがまま者ぞろいで、困っているのです。この二十日《はつか》から、夏休みになりますので、本当は九月から、お願いしてもいいのですが、貴女のご都合がおよろしければ、休み中軽井沢の方へ行きますので、あちらへ来て頂いても、よろしいのですが……」と、手をのばして、シガーボックスから、キリアジを取り、火を点じると、やがてゆるやかに紫煙を漂わせた。
 新子は、いかにも物なれた優美さに、ある驚きをさえ持った。路子さんが、もっと兄さんに似ていたら、どんなに美しかっただろうと思ったくらいである。物を云う、
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