いられるのではないかと不安だった……。
 最後の電鳴のはげしさに、思わずすがりついた新子を掻き抱くと、どちらからともなく、唇を合わせてしまった楽しい秘密も……。
 準之助氏は、身体全体が、カッと熱くなって、いそいで己れの部屋へはいると、扉《ドア》を立ててしまった。


 新子が濡れた足袋《たび》を脱ぐと、十の指は、爪まで色を失って、冷たく、凍えていた。手の指も、ハッと呼吸《いき》を吹きかけないと、自由にならないほど、冷え切っていた。高原の夕立は、都会のそれとは違って猛烈で、雨が冷たかった。準之助氏より、十分ほど早く帰って来た新子は、和服でもありかなりひどく濡れてしまっていた。
 女中達に騒がれるのを厭《いと》って、コソコソと自分の部屋へ上って来たのだけれど、いくら注意して歩いても廊下に、雫《しずく》の落ちるほどあさましく濡れた我身であった。
 手早く、銘仙の着物に着換え、帯もシャンと締直し、髪も手がるに束《つか》ねなおし、気を落ちつけるように机の前に、坐った。
 途端に、聞き馴れたスキーパの独唱が、夫人の部屋から聞えて来た。新子の好きな、そして美沢も愛好している「グラナダ」という、古いレコードである。
 何という不可思議な心理だろう。新子は、三十分前の自分の気持が、自分でも分らなかった。美沢とは、二年近い交際で、最初から好きで、だんだん愛するようになり、二人ぎりで居る機会も多かったにも拘わらず、美沢が自分の手を握ったことだって、二、三度しかないのに、……準之助氏は、さのみに愛してもいず、一言だって愛を語ったわけでもないのに、どうして、あんなに脆《もろ》くも唇を許してしまったのだろうか。
 新子は、自分の気持が、不可思議でならなかった。やはり、あんな大金をもらったという弱味が、いつかしら自分の心を、あの人の方に傾けていたのかしら。新子は、そう思うと、急に悲しくなった。

        三

 言葉に出して愛をささやかれ、言葉に出して愛を求められる場合は、女性の心は、ピンと張り切っていて、理性が働き感情が冴えて、容易に肯《うなず》かないものであるが、すべてが行動で、その時と場合との機《はず》みに乗って来られたのでは、ちょうど先刻の夕立のように、身を避ける間もなく、濡れてしまうのではないかしら。
 準之助氏も嫌いな人ではない。しかし、ああも簡単にはと思うと、新子は、自分
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