前へ歩いて行って、自分の姿や顔をにこやかに眺めながら、香水を耳や喉につけて、心の中で、
(この次は、若い男の家庭教師を雇うことにしよう。女なんか真平だわ)と考えた。
その時、厳格な表情をした準之助氏が、はいって来た。
夫人は、腕かけ椅子に、深々と腰をおろすと、しおらしい表情で良人《おっと》を見上げた。
「どうしたのだい? 一体、小太郎が綴方の字を間違えて、それで南條先生が……」と、準之助氏のいいかけるのを、夫人は頷きながら、引き取って、
「小太郎が、貴君に何か申し上げましたの? ほんとに、何でもないつまらない、ことなんですの。」
夫人は、笑いながら、ごく自然に良人の片手を握って、
「そう? だって、私も少し驚いているんですよ。あの人くらい、高慢で、しかも自我の強い人ったらありゃしないわ。私が小太郎に仕度という字を仕《つかまつ》ると教えたのが、違っていると云って……」
「支度は仕ると書いたら、間違いか……」
「ほら、貴君だって、仕るとお書きになるでしょう。それを支《ささ》える度《たく》が正しいと云って、小太郎をわざわざ私の処へ訂正によこさなくってもいいじゃありませんか。それじゃ、私だっていい加減不愉快になるじゃありませんか。それに、あの人子供と少し馴れすぎるし、逸郎さんなんかと、すぐ散歩するのだって、どうかと思いますのよ。だから、その点も、ちょっと注意しましたの。すると、もう開き直ってよすというんですもの。」
「ふむ。」準之助氏は、呼吸《いき》をのんだ。
「私だって、今までの家庭教師よりは、あの人よっぽど、いいと思っていますわ。でも、ああ高慢で素直でないとなると考えますわねえ。それに、私がちょっと注意したら、すぐ跳ね返して来て、お暇を頂きたいというんですもの。(どうぞご自由に)というほかないじゃありませんか。」
「しかし、子供達は、とても南條さんに馴れているじゃないか。南條さんが来たために、小太郎なんか、ずーっと勉強するようになったと思うが……」
「ですから、私もあの人に出て行ってくれなんて、ちっとも云いませんのよ。でも向うから暇をくれと云う奉公人に、主人が頭を下げて、どうぞ居てくれとも云えないじゃありませんか。あの人も、少し高慢なところが、瑕《きず》ですわ。もう、少し素直だとほんとうにいい人なんですけれど。」
「ふむ。」準之助氏は止むを得ずうなずいた。夫人がこ
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