忘れて、頼もしく嬉しくありがたく思うばかりだった。
姉の歓喜、輝きに充ちた舞台姿などが、胸の内に浮び上って来る。
なごやかな感情と、充ち溢れる感謝とを、新子は、
「ありがとうございます。」と、簡明にいい表した。
不当な謝礼を貰った上に、不当なお金を借りる、慎まねばならぬと思いながら、結局新子は、準之助氏に甘えているのであった。
小太郎は、緑色の自転車に乗って、前庭を、クルクル廻っていた。
「どうぞ、いつまでも、僕の家にいらっして下さい。」
「それは、私の方からお願いすることですわ。」新子の言葉に初めて、媚態らしいものが、ほのめいた。
「僕は、いつも貴女に、今のような晴れやかな顔をして、いてもらいたいのです。お困りになれば、どんなご相談にでものりますよ。」気がつくと、準之助氏があまりに、身近にいるので、新子はハッとして一歩退いた。
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姉の代りに
一
美沢は、新子からの手紙を受けとった。
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おたより有難う存じました。
小さいお嬢さんが病気になったので、その方に気を取られて、四、五日お手紙を書けなかったのですわ。でも、もうほとんどよくなったので、私も安心しました。ところが三、四日前、私は無茶に走らせて来た夫人の馬と出会頭になって、驚いて樹にぶっつかりましたので、足を痛めましたの。わずかな傷でしたが、ショックの方が大きく、気持がわるくなって、お返事をすぐ書く気になれなかったのでした。
今日は、また森に行って、貴君《あなた》のことを思いました。ここの静かな森を、貴君と一しょに歩きたいと思いましたの。
軽井沢は、ほんとに貴君に気に入りそうなところですわ。何とか都合して、一日でもいいから遊びにいらっしゃいませんか。夜など、一人でぼんやりしているとき、貴君のお部屋の容子なんか、よく思い出していますのよ。今頃は物干しに、貴君はきっと朝顔の鉢をいくつも並べているでしょうね。いつも貴君の書棚の上にかかっている「読書随処浄土」というお父さまが、お書きになったという字額が、すぐ目に浮んできますのよ。ここでは、貴君とお話しするように、心からお話の出来る人は、誰もいませんの。……
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七月も終りになってから、美沢の通っている練習所も閑散で、練習はほとんど休みになったので、美沢は大抵家にいた
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