いと応《こた》え、勝頼の馬の手綱を採って押戴き、踏止まって討死した。此時にはもう追手の勢間近に迫って居たので忽ち徳川の兵十二三騎後を慕って寄せて来た。伝右衛門、惣蔵、渡合って各々一騎を切落し、惣蔵更に一騎と引組んで落ち、首を獲る処に折よく小山田|掃部《かもん》、弟弥介来かかって、辛うじて退かしめた。弥介は、伝右衛門奮戦の際、持って居た勝頼の諏訪|法性《ほっしょう》の甲を田に落したのを拾い上げた。勝頼、惣蔵を扇で煽《あお》いで労《ねぎ》らい、伝右衛門の軽傷を負ったのに自ら薬をつけてやった。黒瀬から小松ヶ瀬を渉り、菅沼|刑部《ぎょうぶ》貞吉の武節《ぶせつ》の城に入り、梅酢で渇を医やしたと云う。勝頼の将士死するもの一万、織田徳川の死傷又六千を下らなかったと伝わる。とにかく信長の方では三重にも柵を構え、それに依って武田の猛将勇士が突撃するのを阻《はば》み、武田方のマゴマゴしている所を鉄砲で打ち萎《すく》めようと云うのである。鉄条網をこしらえていて、それにひっかかるのを待って機関銃で掃射しようと云う現代の戦術その儘《まま》である。こう云う戦術にかかっては、いかに馬場信房でも山県昌景でも、生身であ
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