忠言を容れるのが第一である」として居たが、彼の座右の銘が勝頼に解し得なかったのは是非もない次第であった。昌景が討死の前、眼をつけた武士は、羽柴秀吉であったと伝えられる。武田左馬助、小山田兵衛尉、跡部大炊助等も別の一手をもって、弾正台の家康を目指すけれど大勢は既に決した。望月甚八郎、山県討死の処に乗入れて敗残の兵を引上げしめようとしたが、弾丸一度に九つも中り、脚と内冑を撃たれて果てた。ここに至って甲斐の武将勇卒概ね弾丸の犠牲となり終って、武田勢総敗軍の終局となる。敵浮足立ったりと見ると、織田徳川の両軍は柵外に出でて追撃戦に移った。信長の使が徳川の陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門|信成《のぶなり》、金の軍配|団扇《うちわ》に七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って返答したりと申されよ」と云った。意気|昂《あが》って鼻いきが荒いのである。徳川の脇備《わきぞなえ》、本多平八郎、榊原小平太、直ちに勝頼の本陣に突懸った。勝頼騒がず真先に馳《か》け合せようとするのを、土屋惣蔵馬の轡《くつわ》を押え、小山田十郎兵衛以下旗本の士
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