った。惣蔵、兄右衛門尉の身を気づかって、馬を返すこと二度に及んだが、その度に勝頼も轡を返した程であった。勝頼の後三四町の処を、武田左馬之助信豊三四十騎をもって殿軍して居た。勝頼ふり返って、信豊の様子を眺めて居たが、伝右衛門を顧みて曰く、「我、信玄の時御先を馳《か》けたるによって、当家重大の紺地泥《こんじでい》の母衣《ほろ》に四郎勝頼と記したのを指した。当主となった後は左馬助に譲ったが、今見ると指して居ない。若し敵の手に渡る様なことがあれば勝頼末代までの恥である。身命を棄つるともこれを棄てては引く事は出来ない」そこで伝右衛門、左馬助の許に馳せて聞くと、「戦い余りに激しかったので串は捨て、母衣は家老の青木尾張守に持たせて置いた」と答えて尾張の首に巻き附けたのを解いて渡した。勝頼上帯に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んで後《のち》進もうとすると馬が疲労し尽して動かない。笠井肥後守この体を見て馳せ来《きた》るや、馬から飛び下り、「この馬に召さるべし」と云う。勝頼「汝馬から離れれば必ず討死することになるぞ」と云うと、恩義の故に命は軽い、忰をどうぞ御引立下さいと応《こた》え、勝頼の馬の手綱を採って押戴き、踏止まって討死した。此時にはもう追手の勢間近に迫って居たので忽ち徳川の兵十二三騎後を慕って寄せて来た。伝右衛門、惣蔵、渡合って各々一騎を切落し、惣蔵更に一騎と引組んで落ち、首を獲る処に折よく小山田|掃部《かもん》、弟弥介来かかって、辛うじて退かしめた。弥介は、伝右衛門奮戦の際、持って居た勝頼の諏訪|法性《ほっしょう》の甲を田に落したのを拾い上げた。勝頼、惣蔵を扇で煽《あお》いで労《ねぎ》らい、伝右衛門の軽傷を負ったのに自ら薬をつけてやった。黒瀬から小松ヶ瀬を渉り、菅沼|刑部《ぎょうぶ》貞吉の武節《ぶせつ》の城に入り、梅酢で渇を医やしたと云う。勝頼の将士死するもの一万、織田徳川の死傷又六千を下らなかったと伝わる。とにかく信長の方では三重にも柵を構え、それに依って武田の猛将勇士が突撃するのを阻《はば》み、武田方のマゴマゴしている所を鉄砲で打ち萎《すく》めようと云うのである。鉄条網をこしらえていて、それにひっかかるのを待って機関銃で掃射しようと云う現代の戦術その儘《まま》である。こう云う戦術にかかっては、いかに馬場信房でも山県昌景でも、生身であ
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