人の死を聞いた忠直卿は、少しも歓ばなかった。与四郎が覚悟の自殺をしたところから考えると、彼が匕首をもって忠直卿に迫ったのも、どうやら怪しくなって来た。忠直卿に潔《いさぎよ》く手刃《しゅじん》されんための手段に過ぎなかったようにも思われた、もしそうだとすると、忠直卿が見事にその利腕を取って捻じ倒したのも、紅白仕合に敵の大将を見事に破っていたのと、余り違ったわけのものではなかった。そう考えると、忠直卿は再び暗澹たる絶望的な気持に陥ってしまった。
忠直卿の乱行が、その後益々進んだことは、歴史にある通りである。最後には、家臣をほしいままに手刃《しゅじん》するばかりでなく、無辜《むこ》の良民を捕えて、これに凶刃を加えるに至った。ことに口碑《こうひ》に残る「石の俎《まないた》」の言い伝えは、百世の後なお人に面《おもて》を背けさせるものである。が、忠直卿が、かかる残虐を敢てしたのは、多分臣下が忠直卿を人間扱いにしないので、忠直卿の方でも、おしまいに臣下を人間扱いにしなくなったのかも知れない。
六
しかし、忠直卿の乱行も、無限には続かなかった。放埒《ほうらつ》がたび重なるにつれて、幕府の執政たる土居|大炊頭利勝《おおいのかみとしかつ》、本多|上野介正純《こうずけのすけまさずみ》は、私《ひそか》に越前侯廃絶の策をめぐらした。が、剛強無双の上に、徳川家には嫡々たる忠直卿に、正面からことを計っては、いかなる大変をひき起すかも分からぬので、ついには、忠直卿の御生母なる清涼尼《せいりょうに》を越前へ送って、将軍家の意をそれとなく忠直卿に伝えることにした。
忠直卿は、母君との絶えて久しき対面を欣《よろこ》ばれたが、改易《かいえき》の沙汰を思いのほかにたやすく聞き入れられ、六十七万石の封城を、弊履のごとく捨てられ、配所たる豊後国府内《ぶんごのくにふない》に赴かれた。途中、敦賀にて入道され、法名を一|伯《ぱく》と付けられた。時に元和《げんな》九年五月のことで、忠直卿は三十の年を越したばかりであった。後に豊後府内から同国|津守《つのかみ》に移されて、台所料として幕府から一万石を給され、晩年をこともなく過し、慶安《けいあん》三年九月十日に薨《こう》じた。享年五十六歳であった。
忠直卿の晩年の生活については、なんらの史実も伝わっていない。ただ、忠直卿警護の任に当っていた府内の城主竹中|采女正重次《うぬめのしょうしげつぐ》が、その家臣をして忠直卿の行状を録せしめて、幕席の執政たる土居大炊頭利勝に送った「忠直卿行状記」の一冊があるばかりである。その一節に、
「忠直卿当国|津守《つのかみ》に移らせ給うて後は、些《いささか》の荒々しきお振舞もなく安けく暮され申候。兼々《かねがね》仰せられ候には、六十七万石の家国を失いつる折は、悪夢より覚めたらんが如く、ただすがすがしゅうこそ思い候え。生々世々、国主大名などに再びとは生れまじきぞ、多勢の中に交じりながら、孤独地獄にも陥ちたらんが如く苦艱《くげん》を受くること屡々《しばしば》なりなど仰せられ、御改易のことについては、些の御後悔だに見えさせられず候。……徒然《つれづれ》の折には、村年寄僧侶などさえお手近く召し寄せられ、囲棋のお遊びなどあり、打ち興ぜさせたもう有様、殷《いん》の紂王《ちゅうおう》にも勝れる暴君よなど、噂せられたまいし面影更に見え給わず。ことに津守の浄建寺《じょうけんじ》の洸山老衲《こうざんろうのう》とは、いと入懇《じっこん》に渡らせられ、老衲が、『六十七万石も持たせたまえば、誰も紂王の真似などもいたしたくなるものぞ。殿の悪しきに非ず』など、聞え上げけるに、お怒りのようもなく笑わせ給う。末には百姓町人の賤しきをさえお目通りに引き給い、無礼《なめげ》に飾なく申し上ぐることを、いと興がらせ給えり。御身はよろず、お慎み深く、近侍の者を憫み、領民を愛撫したもう有様、六十七万石の家国を失いたる無法人とも見えずと人々|不審《いぶか》しく思うこと今に止まず候」と、あった。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:湯地光弘
1999年11月4日公開
2010年1月7日修正
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