あった。が、人々はこの二人を死せしめた原因を、ただ不可抗力な天災だと考えていた。一種の避くべからざる運命のように思っていた。
 二人が前後して死んでみると、家中の人々の興味は、妻を奪われながら、只一人生き残っている浅水与四郎《あさみずよしろう》の身に集っていた。
 そして、妻を奪われながら、腹を得切らぬその男を、臆病者として非難するものさえあった。
 が、四、五日してから、その男は飄然として登城した、そして、忠直卿にお目通りを願いたいと目付まで申し出《い》でた。が、目付は、浅水与四郎をいろいろに宥《なだ》め賺《すか》そうとした。
「なんと申しても、相手は主君じゃ。お身が今、お目通りに出たら必定お手打ちじゃ。殿の御非道は、我人《われひと》共によく分かっている、がなんと申しても相手は主君じゃ」
 が、与四郎は断然としていい放った。
「たといいかがなろうとも、お目通りを願うのじゃ。たとえ身は八劈《やつざ》きにされようとも、念ないことじゃ。是非お取次ぎ下されい」と、必死の色を示した。
 目付は、仕方なく白書院に詰めている家老の一人へ、その嘆願を伝えた。それを聞いた老年の家老は、「与四郎めは、血迷うたと見えるな。主君の御無理は分かっていることじゃが、この場合腹をかっ切って死諫《しかん》を進めるのが、臣下としての本分じゃ。他の二人はよう心得ているに、与四郎めは女房を取られたので血迷うたと見える。かほどの不覚人とは思わなかったに」と囁いた。
 家老は、なおブツブツと口小言をいいながら、小姓を呼んで、そのことを渋々ながら忠直卿の耳に伝えしめた。
 すると、忠直卿は、思いのほかに機嫌斜めならずであった。
「ははは、与四郎めが、参ったか。よくぞ参りおった。すぐ通せ! 目通り許すぞ」と、呼ばれたが、この頃絶えて見えなかった晴れがましい微笑が、頬の辺に漂うた。
 しばらくすると、忠直卿の目の前に、病犬のように呆《ほう》けた与四郎の姿が現れた。数日来の心労に疲れたと見え、色が蒼ざめて、顔中にどことなく殺気が漂っている。そして、その瞳の中には、二筋も三筋も血を引いている。
 忠直卿は生来初めて、自分の目の前に、自分の家臣が本当の感情を隠さず、顔に現しているのを見た。
「与四郎か! 近う進め!」と、忠直卿は温顔をもってこういわれた。なんだか、自分が人間として他の人間に対しているように思って、与四郎に対して、一種の懐しさをさえ覚えた。主従の境を隔つる膜が除かれて、ただ人間同士として、向い合っているように思われた。
 与四郎は、畳の上を三反ばかり滑り寄ると、地獄の底からでも、洩れるような呻き声を出した。
「殿! 主従の道も、人倫の大道よりは小事でござるぞ。妻を奪われましたお恨み、かくのごとく申し上げまするぞ」と、いうかと思うと、与四郎は飛燕のごとく身を躍らせて、忠直卿に飛びかかった。その右の手には、早くも匕首《あいくち》が光っていた。が、与四郎は、軽捷な忠直卿にわけもなく利腕《ききうで》を取られて、そこに捻じ伏せられてしまった。近習の一人は、気を利かせたつもりで、小姓の持っていた忠直卿の佩刀《はいとう》を彼に手渡そうとした。が、忠直卿はかえってその男を斥《しりぞ》けた。
「与四郎! さすがに其方《そち》は武士じゃのう」と、いいながら、忠直卿は取っていた与四郎の手を放した。与四郎は、匕首を持ったまま、面《おもて》も揚げず、そこに平伏した。
「其方の女房も、さすがに命を召さるるとも、余が言葉に従わぬと申しおった。余の家来には珍しい者どもじゃ」と、いったまま、忠直卿は心から快げに哄笑《こうしょう》した。
 忠直卿は、与四郎の反抗によって、二重の歓びを得ていた。一つは、一個の人間として、他人から恨まれ殺されんとすることによって、初めて自分も人間の世界へ一歩踏み入れることが許されたように覚えたことである。もう一つは、家中において、打物取っては俊捷第一の噂ある与四郎が必死の匕首を、物の見事に取り押えたことであった。この勝負に、嘘や佯《いつわり》があろうとは思えなかった。彼は、久し振りに勝利の快感を、なんの疑惑なしに、楽しむことができた。忠直卿は、この頃から胸のうちに腐りついている鬱懐の一端が解け始めて、明かな光明を見たように思われた。
「ただこのままに、お手打ちを」と嘆願する与四郎は、なんのお咎めもなく下げられたばかりでなく、与四郎の妻も、即刻お暇を賜った。
 が、忠直卿のこの歓びも、決して長くは続かなかった。
 与四郎夫婦は、城中から下げられると、その夜、枕を並べて覚悟の自殺を遂げてしまった、なんのために死んだのか、確かにはわからなかったが、おそらく相伝の主君に刃《やいば》を向けたのを恥じたのと、かつは彼らの命を救った忠直卿の寛仁大度に、感激したためであろう。
 が、二
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング