した意識を伴った心安さの奥には、ごつごつとした骨があった。
真槍の仕合以来、忠直卿は忘れたかのように、武術の稽古から身を遠ざけた。毎日日課のように続けていた武術仕合を中止したばかりでなく、木刀を取り、稽古槍を手にすることさえなくなった。
威張ってはいたが寛闊で、乱暴ではあったが無邪気な青年君主であった忠直卿は、ふっつりと木刀や半弓を手にしなくなった代りに、酒杯を手にする日が多くなった。少年時代から豪酒の素質を持ってはいたが、酒に淫することなどは、決してなかったのが、今では大杯をしきりに傾けて、乱酒の萌《きざし》がようやく現れた。
ある夜の酒宴の席であった。忠直卿の機嫌がいつになく晴々しかった。すると、彼にとっては第一の寵臣である増田勘之介《ますだかんのすけ》という小姓が、彼の大杯になみなみと酌をしながら、
「殿には、何故この頃兵法座敷には渡らされませぬか。先頃のお手柄にちと御慢心遊ばして、御怠慢とお見受け申しまする」といった。彼は、こういうことによって、主君に対する親しみを十分見せたつもりであった。
すると、思いがけもなく、忠直卿の顔は急に色を変じた。つと、そばにあった杯盤を、取るよりも早く、勘之介の面上を目がけて発矢《はっし》とばかりに投げ付けた。主君から、予期せざる暴行を受けて、勘之介ははっと色を変じたが、忠義一途の彼は、決して身体をかわさなかった。彼はその杯盤を真向に受けて、白い面から血を流しながら、その場に平伏した。
忠直卿は、物をもいわず立ち上ると、そのまま奥殿へ入ってしまった。同僚の誰彼が駆け寄って慰めながら、勘之介を引き起こした。
勘之介は、その日、病《やまい》と称して宿へ下ったが、その夜の明けるを待たず切腹した。
忠直脚は、それを聞くと、ただ淋しく苦笑したばかりであった。
そのことがあってから、十日ばかりも経った頃だった。忠直卿は、老家老の小山|丹後《たんご》と碁を囲んでいた。老人と忠直卿とは、相碁であった。が、二、三年来、老人はだんだん負け越すことが多かった。その日も、丹後は忠直卿のために、三回ばかり続けざまに敗れた。すると、老人は人の好きそうな微笑を示しながら、
「殿は近頃、いかい御上達じゃ。老人ではとてもお相手がなり申さぬわ」といった。
と、今まで晴れやかに続けざまの快勝を享楽していたらしい忠直卿の面を、暗欝の陰影が掠《かす》
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