んごやくけん》二|冊《さつ》、唐詩選掌故《とうしせんしょうこ》二|冊《さつ》、抄録数冊《しょうろくすうさつ》とを小さい振分の荷物にした。それが千里の海を渡って、アメリカヘ行く彼の荷物だった。
夜の五つ刻《どき》、弁天堂の下の海岸へ出て見ると、降るような星月夜の下に、波は思いのほかに凪《な》いでいた。六隻の黒船は銘々《めいめい》に青い停泊灯を掲げながら、小島のように、その黒い姿を並べていた。二人の心は躍った。が、昼間見た小舟を探してみると、それは引き潮のために、砂浜高く打ち揚げられているのだった。二人は懸命になって押してみた。が、それはびくとも動かなかった。
潮がふたたび満ちて来るのを待つよりほかはなかった。二人は、弁天堂の中へ入って寝てしまった。目がさめたのは八つを回った頃だろう。星明りのうちに潮が堂の真下まで満ちているのが分かった。
二人は欣び勇んで舟に乗った。が、櫂《かい》を取って、漕ぎ出そうとすると、肝心な櫓臍《ろべそ》がないことが分かった。おどろいてもう一つの舟に乗り替えてみた。が、その舟も同じだった。あわてた。が、咄嗟《とっさ》な場合、二人は下帯を脱して、櫂を両方の舷《ふなべり》へ縛《しば》り付けた。が、半町と漕がないうちに、弱い木綿は、櫂と舷との強い摩擦のために摩《す》り切れてしまった。二人は小倉の帯を解いて、櫂を縛り直すほかはなかった。
漕ぎ出して見ると、岸に立って見たときとは違って波涛が荒かった。ともすれば、舟は波に煽《あお》られて顛覆《かえ》りそうになった。その上、寅二郎は今まで舟を漕いだことがなく、ただ力委せに櫂を動かすのだから、二人の調子が合わず、いちばん間近のミシシッピー船へ向けた舳《みよし》はくるくる回って、舳の前へ下田の村の灯火《ともしび》が現れたり、柿崎の浜の森が現れたりした。舟は前へは進まないで同じ所を回った。
二人の腕が脱けるようになったとき、やっとミシシッピー船《ふね》の舷側《げんそく》へ着いた。二人は、蘇生《そせい》した思いがした。
「メリケン人! メリケン人!」重輔は、小舟の舷《ふなべり》に、足をかけながら、大声に叫んだ。
船上に怪しい叫び声が起り、人の気勢《けはい》がしたかと思うと、ギヤマンの灯籠《とうろう》が、舷側から吊し下ろされた。見上ぐると、船上から数人の夷人が、見下ろしている。寅二郎は矢立を取り出し、灯籠の光で懐紙に「|吾欲[#レ]往[#二]米利堅[#一]《われメリケンにゆかんとほっす》|君幸請[#二]之大将[#一]《きみさいわいこれをたいしょうにこえ》」と、手早く認《したた》めて、その紙片を持ちながら、舷梯《げんてい》をかけ上った。が、不幸にもその船には、通辞がいなかった。老いた夷人は、寅二郎からその紙片を受け取ると別の紙に横行の字をかいて、二つの紙片を寅二郎に返しながら、ポウワタン船《ふね》を指して、手真似であの船へ行けといった。二人には、その意味がすぐ分かったけれども、乗ってきた小舟で、更に一町の沖合へ進むことは至難のことであった。寅二郎は、船上に吊ってあるバッテイラを指して、手真似であれで連れて行けと頼んだが、きかれなかった。
疲れ切った身体で、二人はポウワタン船まで漕いで行った。沖へ出れば出るほど波が荒くなった。寅二郎も重輔も、手掌《てのひら》に水泡《まめ》がいくつもできた。が、舟は容易に彼らの思う通りにならなかった。内側へ付けようと思ったのが、外洋へ向った波の荒い外側に付いてしまった。しかも舷側と舷梯との間に挟まれ、激しい波に煽《あお》られ、凄《すさま》じい音を立てながら、舷側へ幾度も叩き付けられた。
船上に立って居る番兵に、その音が聞えたのだろう。手に長い棒を持った夷人が、怒り罵りながら舷梯を駆け降りて来て、二人の乗った舟を、その棒で突き出そうとした。突き出されては堪らないと思ったので、寅二郎は、素早く舷梯へ飛び移った。重輔は、纜《ともづな》を梯子に移った寅二郎に渡そうとした。が、夷人は容赦もなく舟を突き出すので、重輔もあわてて舷梯へ飛び移った。そして、小舟の纜を手放してしまった。
舟には、二人の大小と荷物とを残してあった。が、旗艦に乗った以上、ともかくもなると思ったので、小舟の流れ去るのを顧みなかった。むろん、顧みる余裕もなかったが。
二人を船上へ拉《らっ》した夷人は、二人が船を見物に来たのだと思ったのだろう。二人に羅針盤を見せたりした。二人は首を振って、筆と紙とを求めた。矢立《やたて》も懐紙も小舟へ残して来たのである。
間もなく、日本語の通辞ウィリアムスが出て来、そして二人は船室へ導かれた。ギヤマンのランプが室内を真昼のように、煌々《こうこう》と照らしていた。
室内には、通辞のほかに、二人の夷人が立ち会った。一人は副艦長のゲビスで、他は
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング