かった。
六本木の停留場で降り、龍土町《りゅうどちょう》の近藤氏の家の方へ歩いて居る時には、譲吉の涙は忘れたように、乾《かわ》いて居た。
譲吉は、一家が涙で以って、濡《ぬ》れ切って居る所へ、自分一人涙無しに行くのは何となく気が咎《とが》めた。夫かと云って一旦出なくなった涙は、意識しては何うしても出なかった。
が、近藤家の勝手を知った譲吉が、内玄関を上って、夫人の居間であった八畳へ行くと、其処には思い掛なく夫人の代りに、主人の近藤氏が羽織袴で坐って居た。譲吉は悔みの挨拶をしようとしたが急に発作的に起った嗚咽《おえつ》の為に彼は、暫《しばら》くは何うしても、言葉が出なかった。譲吉は、自分の過度のセンチメンタリティが、一種誇張の外観を、呈しはせぬかと思うと、可なり不快であった。彼は出来る丈け早く自分の感情を抑制しようと思ったが、不思議に彼の嗚咽は続いた。而《しか》も、その嗚咽は不思議に、深い感情を伴って居ない軽い発作で、而も余りに大げさな外観を持って居た。彼は自分で自分を卑しんだ。見ると、近藤氏は右の手を、額に加えて、新しく滲《に》じみ出ようとする涙を押えて居た。平生殆ど喜怒を現した事のない主人の、男性的な涙を見た時は、譲吉は愈々自分のセンチメンタリティを卑しんだ。夫でも、彼の嗚咽は尚無用に続いて居た。
「離れに置いてあるから、直ぐ彼方《あっち》へ行って呉れ。」と、主人は落着いた声で言った。
彼は直ぐ奥の離れへ行った。紫色の御召を着た令嬢の雪子さんと、瑠璃子さんが、泣顔を上げて譲吉の顔をチラリと見た。
何時もは、此の二人の令嬢を、世の中で最も幸福な女の子だと思って居た譲吉は、今日は全く反対の考を懐《いだ》かねばならなかった。夫人の遺骸《いがい》は、十畳間の中央に、裾模様《すそもよう》の黒縮緬《くろちりめん》、紋附を逆さまに掛けられて、静に横たわって居た。譲吉は、徐《おもむ》ろに遺骸の傍に進んだ。そして両手を突いて頭を下げた。口の裡で夫人から受けた高恩を謝した。涙がまた新しく頬を伝った。夫人は急激な尿毒症に襲われ、僅か五時間の病《わずら》いで殪《たお》れたのであった。
夫からの三日間、譲吉はお通夜《つや》の席に連った。彼はお通夜などと云う仏教の形式に、反感を懐いて居たが、然し自分の悲痛や夫人に対する愛慕を、こうした形式で現わす外、何うとも仕様がなかった。
本当に悲しんで居る人々と、社交上の義理で悲しみを装って居る人々との間に交って、譲吉は、自分一人の特有な悲しみを守って居た。
殊に、夫人が仏教の信者であった為めに、仏教の形式主義《フォマリズム》が、飽く迄もこの悲しみの家を支配して居た。坊主が、眠むそうな声をして、阿弥陀経《あみだきょう》などを読み上げるたびに、譲吉は却《かえ》って自分の純な悲痛の感情が、傷《きずつ》けられるのを覚えた。殊に、初てのお通夜の晩に、菩提寺《ぼだいじ》の住職がお説教をしたが、その坊主は自分の説教に箔《はく》を附ける為か、英語を交じえたりした。
「刹那《せつな》即《すなわ》ちモーメントの出来事を……」と、云ったような言葉遣いが、譲吉の僧侶に対する反感を、一層強めた。殊にその坊主が、
「米国のロックフェラア曰《いわ》く『人生は死に向って不断に進軍|喇叭《らっぱ》を吹いて居る』と、遉《さすが》は米国の大学者丈あって、真理を道破して居るようです……」と云った時には、譲吉は馬鹿々々しくなって、席を脱《はず》した。恐らくこの男は詩人ロングフェロウの言葉を聞き囓《か》じって居たのを、大富豪ロックフェラアに結び附けて而もロックフェラアを大学者にしてしまったに相違ない。譲吉は、最も厳粛な筈の、第一夜のお通夜の晩に、こうした出鱈目《でたらめ》を云って居る僧侶その者に対して、憐憫《れんびん》を感ずると同時に、軽い反感を覚えるのを、何うともする事が出来なかった。
第二夜のお通夜の人々は、第一夜の人々よりも、お通夜に相当な感情を持ち合わして居なかった。更に第三夜になると、近藤夫人とは生前には、一度も顔を合わしたことのないような人が、眠い眼をこすって居た。
葬式の日に於ても譲吉は、多少の不満を感ぜずに居られなかった。譲吉と、夫人との間には多くの僧侶が介在し、多くの縁者親戚が介在し、譲吉は単なる会葬者の一人として、遠くから、夫人の遺骸に訣別《けつべつ》の涙を手向《たむ》けたに過ぎなかった。
京都からワザワザ上京したと云う御連枝が、音頭《おんど》を取って唱える正信偈《しょうしんげ》は、譲吉の哀悼の心を無用に焦立たせたに過ぎなかった。
夫人が、死んでから二三週間、譲吉は、自分の心に生じた空虚を明かに感じた。夫人は彼に取ってもう掛換《かけがえ》のない人であった。譲吉が現在の生活を享《う》けて居るのは、殆ど夫人の力であっ
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