って、押入れの方へ歩いた。彼は此場合直ぐ駈《か》け附ける事が、第一の急務である事に気が附いた。不断着を脱いで外行《よそゆ》きに着替えて居ると今迄少しも出なかった涙が、譲吉の頬を伝った。急激な報知《しらせ》の為に、掻《か》き擾《みだ》された感情が静まりかけて、其処に恩人の死と云う事実が、何物にも紛ぎらされずに、彼の心に喰い込んで来たからである。
譲吉とピンポンをして居た、兄弟の少年は、ラケットを手にしながら、譲吉が涙をこぼして居るのを、不思議そうに見て居た。譲吉は、子供に涙を見られるのを可なり気恥しく思ったが、涙は何うしても止まらなかった。
「今晩は、帰らんかも分らないぞ。」譲吉は袴を穿きながら、妻に云った。彼の妻は産婆の家から、帰ってまだ間もない上に、雇う筈《はず》になって居る子守が、まだ見附かって居なかった。他人の家の離座敷を借りて居る為に、要慎《ようじん》はいいようなものの、赤坊を抱《かか》えて一晩|独《ひと》りで留守をする事は、彼女に取っては、可なりの、苦痛に相違なかった。彼女は色を蒼《あお》くして、涙ぐみそうな顔をして居た。彼女に取っては、近藤夫人の死よりも、一晩留守をさされる事が、より大きい苦痛であったのだ。が、譲吉が近藤夫人から受けた恩誼《おんぎ》が、何んなに大きいかを知って居る彼女は、譲吉がその夜帰らぬ事に就いて何等の抗議をもしなかった。
譲吉は、電車に乗った。が、彼は先刻《さっき》からの涙が、まだ続いて居た。三十に近い男が、電車の中で泣いて居る事は、決してよい外観を呈する訳ではなかった。で、彼は窓から外を見るような風をして、涙を時々拭《ぬぐ》って居た。
が、過去に於て近藤夫人から受けた、好意の数々を思い出す度に、稍々《やや》センチメンタルな涙が、後から後からと出て来た。実際夫人は彼に取って、此数年来生活の唯一の保証者であった。彼と夫人との関係は『与えられる』と云う関係に尽きて居た。彼は近藤夫人に対して、何等の恩返しもしなかった。ただ夫人の恩恵を、真正面から受け、夫に対して純な感謝の情を、何時迄も懐《いだ》いて居りたいと、思って居た。恩返しを試むる事は、或《ある》意味に於て恩を受けた者の、利己的《エゴイスチック》な要求に基づいて居る事が多かった。恩を受けて居る事と、夫に対して感謝して居る事とに依って、其処に温い人情関係が作られて居る、若し恩を返し
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