、倅周平は槍を斬折られ、下拙刀は、虎徹故にや、無事に御座候」
何れも新撰組切つての剣客揃ひである。僅か五人で斬込んだのであるから、その力戦振りも思ひやられる。
その中に、縄手から引返した土方歳三の一隊が加つて、こゝに稀代の大捕物陣が展開されたわけである。
「実に是迄、度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は、稀に覚え候。今度の敵、多数とは申しながらも孰れも万夫の勇士、誠に危き命助かり申候」
これが勇の欺かざる述懐である。
新撰組も克《よ》く力闘したが同時に勤皇諸有志が如何に勇戦したか、これで判る。
人を斬るのに、最も豊富な経験を持つ、近藤勇をして、この嘆声を発せしめたのであるから、殉難の志士も以て瞑すべしだ。公論は常に、敵側より発せられるものである。
殉難の諸士
飜つて、志士側の当夜の観察は何うか。当時長州藩、京都留守居役、乃美織江《のみおりえ》の手記によれば、形勢緊迫と共に、有志等に軽挙を戒めること痛切であつた。
桂小五郎、久坂義助など幕吏の追跡頻りなので、長藩としては彼等に帰国の命を下し、邸内の有志等にも外出を慎しませてゐた。
吉田|稔麿《としまろ》に対しても、市中の宿屋に泊らず、藩邸に起臥するやうに、勧告したが、容れられず、宮部鼎蔵等にも外出を極力制止してゐたのである。
当夜の手記に依ると、
「乃美|乃《すなは》ち杉山松助、時山直八をして、状を探らしむ。二人帰り報じて曰く、俊太郎逮捕の為め、或ひは不穏の事あらん。宜《よろし》く邸門の守を厳にすべし、と同夜有志多く池田屋に集ると聞く、其の何人たるを詳《つまびら》かにせず」
「夜に入り杉山松助、窃《ひそか》に槍を提げ、外出すと云ふ。未だ久しからずして、松助片腕を斬られ鮮血淋漓として帰邸し、急変ありと告げ、邸門を閉ざし、非常に備へしむ。乃美、何故に外出せしやと問ふ。池田屋に赴かんとして、途中|斯《かく》の如し、遺憾に堪へずと答ふるのみ」
杉山は、途中で要撃されたのであらう。
「邸の近傍に吉田稔麿の死屍を発見す。宮部は池田屋に死し、其の弟傷を負ひ邸に帰る。池田屋女主即死。桂小五郎は屋上より遁れて、対州邸の潜所に帰る」
この池田屋事変で、勤皇方にとつて、最も大きな損害は、宮部鼎蔵と吉田稔麿の死であらう。
吉田稔麿は、脇差をとつて力戦し、裏庭で沖田総司と、一騎討ちになつた。その腕は相当のものであつたが、剣を把つては天才的と云はれた沖田には、敵はない。
肩先を斬られたまゝ逃れ、隣家の庭前に監視してゐた、桑藩士本間某を斬り、黒川某に重傷を被《かうむ》らせ、馳せて河原町の藩邸に向つた。併しこの時は、門の扉は固く鎖してあり、稔麿は入ることが出来ない。その身は重傷であり、遂に進退|谷《きは》まつて、門外に自決したのである。この時、年齢二十四であつた。
吉田稔麿は松陰門下の奇才で、この時は長幕調停案の一案を劃して、帰国の途中、京都に寄つて殉難したのである。
この日も、留守居役の乃美織江が頻りに止めると、
「いや直き帰つて来る」
と云つて、殿様からの下され物の小柄等を乃美に托して、出かけて行つたのである。
この時、自分で髪を結《ゆ》つたが、元結《もとゆひ》が三度も切れたので、
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結びても又結びても黒髪の
乱れそめにし世を如何にせん
[#ここで字下げ終わり]
と云ふ歌を詠んで、乃美に示したと云ふ。これが遂に、その辞世となつたわけである。
宮部鼎蔵は、乱戦の中に池田屋に於て斃れた。一説には、進退谷まつて階段の下で屠腹して果てたとも云ふ。年は四十五であつた。
宮部は肥後の産、吉田松陰とは親友の仲であり、尊攘派の錚々たる一人で、同志からは先輩の一人として推服された人物である。
松陰嘗て宮部を評して、
「国を憂へ、君に忠、又善く朋友と交はりて信あり、其の人懇篤にして剛毅、余|素《もと》よりその人を異とす」
と云つてゐる。
三條|実美《さねとみ》の信頼篤く、その使命を奉じて四方に使ひし、真木和泉《まきいづみ》と共に年齢手腕共に長者であり、志士の間に最も重きをなした人物であつた。生き残つてゐたら、子孫は侯爵になつたかも知れん。
乃美の手記に依ると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命を拾つたとなつてゐるが、事実は違ふらしい。
この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州の藩邸を訪うて、大島友之丞と暫く対談してゐると、市中が俄《にはか》に騒々しくなつた。
何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ。
この時、せめて木戸孝允の命を剰《あま》したゞけでも、長藩のため、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。
桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、
「天王山に兵を出す、此に基《もとづ》けり」
と結んでゐる。
簡潔ながら、流石《さすが》によく断じてゐる。池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。八月十八日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門《はまぐりごもん》の戦闘となるのである。
少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。
近藤勇の最後
この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。
いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。
何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。
池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。
隊員も不足なので、近藤は書を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、蓋《けだ》し池田屋事変は、当時|兎角《とかく》軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。
これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。
蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。
土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、
「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」
とやつた。
勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。
それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。然《しか》も勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん/\守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。
伏見鳥羽の戦《たゝかひ》は、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく、虎徹は元込銃に歯の立つ道理はないのである。
江戸に逃げ帰つた、近藤は、その後色々と画策したが、一度落目になると、する事なす事後手となつて、甲州勝沼の戦に敗れ、下総流山で遂に官軍の手に捕へられた。
この時、政敵である土佐藩の谷守部(干城)は、
「猾賊多年悪をなす。有志の徒を殺害すること|不[#レ]勝[#レ]数《かぞふるにたへず》、一旦命尽き縛に付く。其の様を見るに三尺児と雖《いへど》も猶《なほ》弁ずべきを、頑然首を差伸べて来る。古狸|巧《たくみ》に人を誑《たぶらか》し、其極終に昼出て児童の獲となること、古今の笑談なり。誠に名高き近藤勇、寸兵を労せず、縛に就くも、亦狐狸の数の尽くると一徹なり」と思ひ切つた酷評を下してゐる。いかに、近藤が官軍側から悪《にく》まれてゐたかゞ分るし、谷干城の器量の小さいかも知れる。
人間も落目になれば、考へも愚劣になる。甲陽鎮撫隊で大名格にしてもらひ、故郷へ錦を飾つた積りの穉気振りなど、往年の近藤勇とは別人の観がある。然し、これも必ずしも近藤勇|丈《だけ》の欠点ではない。蓋《けだ》し、得意に、失意に、淡然たる人は、さうあるわけはないのだ。
尤も、近藤勇が五稜郭で戦死してゐたら、終《をはり》を全うした事になるのは勿論である。
真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
しかし、近藤勇の人気は、映画と大衆文芸の影響で、この両者がなかつたら、今ほど有名ではないだらう。地下の近藤勇も、この点は苦笑してゐるだらう。
底本:「菊池寛全集 第十九巻」高松市菊池寛記念館、文藝春秋
1995(平成7)年6月15日発行
底本の親本:「大衆維新史読本」モダン日本社
1939(昭和14)年10月16日
初出:「オール讀物」文藝春秋
1937(昭和12)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:小林繁雄
2006年7月3日作成
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