分二十名を引き連れて、加はり、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体が判る。
これが、京都に止ること二十日ばかりで分裂し、芹沢《せりざは》、近藤等十三人が清河に反き、宿舎八木源之丞の邸前へ「壬生村浪士屯所」の看板を出したのが、所謂新撰組の濫觴《らんしやう》である。
隊員永倉新八こと、杉村義衛翁(大正四年まで存命)の語り誌すところに依ると、総勢十三名の新撰組も、初めはひどく貧乏だつた。三月に隊が出来て、五月になると云ふのに、まだ綿入れを着てゐる者が多かつた。いろ/\考へた末、芹澤が真先に立つて、八名の浪士がわざ/\大坂まで行き、鴻池を脅して二百両借りて戻つた。体のいゝ暴力団だ。
これで麻の羽織に紋付の単衣《ひとへ》、小倉の袴を新調して、初めて江戸以来の着物を脱いだわけである。しかもその羽織たるや大変なもので、浅黄地の袖を、忠臣蔵の義士の様に、だんだら染めにした。
これが当時の新撰組の制服になり、後に池田屋襲撃の時も、隊員一同この羽織を着て、奮戦したのである。
新撰組結成六ヶ月で、近藤勇、土方歳三《ひぢかたとしざう》は、その隊長芹沢鴨を、その妾宅に
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