本一の武士と云うのは自分の事だろう」と豪語した。しかしその事件から基次、関東に内通せりとの訛伝《かでん》ありし為既に死は決していたらしい。その心情の颯爽《さっそう》たる実に日本一の武士と云ってもよい。彼の力戦振りは、「御手がら、げんぺい以来|有間敷《あるまじく》と申すとりざたにて御座候。日本のおぼへためしなきやうに存候」と『芥田文書』にある。彼の奮戦は日本中の評判になった事が分る。
 基次自ら先頭に立ち兵を収めんとしたが、銃丸に胸板を貫かれ、従兵|金方《かねかた》某之を肩にせんとするも体躯肥肝、基次また去るを欲せず命じて頸《くび》を刎《は》ねしめ之を田に埋《うず》めた。同日、薄田兼相亦戦死した。これは、岩見重太郎の後身と云われているが、どうか分らん。濃霧により約束の期に遅れた真田勢は遂に基次兼相の死を救うことが出来ず、伊達隊と会戦した。幸村槍を駢《なら》べて迎え、六文銭の旌旗《しょうき》、甲冑《かっちゅう》、その他赤色を用いし甲州以来の真田の赤隊、山の如く敢て退かず。午後二時頃城内より退去令の伝騎来って後退した。幸村自ら殿軍となり名退却をなす。「しづ/\としつはらひ仕《つかまつり》関東
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