まかりなり》候へども大御所様御運つよきにて、御勝に罷成候」と『薩藩奮記』に出ている。
 斯《か》くて、大阪方は明石全登、御宿《おんしゅく》正友、仙石|宗也《むねなり》の諸部将相次いで戦死し、城内では内通者本丸に火をかけ、城内狼狽を極め、遂に松平忠直第一に城に入り斬獲二万余に上る。
「路には御馬印|捨《すて》候を伊藤武蔵と云ふ広島浪人跡より来り捨たる御馬印を取揚て、唐迄聞えたる御馬印を捨置、落行《おちゆく》段大阪数万の軍勢に勇士一人も無し、伊藤武蔵、御馬印を揚帰るとて御馬印を指上げ城に入る」と『大阪御陣覚書』にあるが、落城の悲惨さが分る。
 大野治長は千姫を脱出せしめて、秀頼母子の助命を請うたが、その効なく、東軍は秀頼の籠る山里|曲輪《くるわ》を目がけて砲撃したから、翌五月八日、遂に秀頼淀君と共に自刃し、治長、速水《はやみ》守久、毛利勝永、大蔵卿等之に殉じた。因《ちなみ》に、『土御門泰重卿記』に依れば京の御所では公卿《くげ》衆が清凉殿の屋根から大阪城の火の手を見物して居たと云う。
 冬の陣はともかく、夏の陣は最初から、到底勝てない戦《いくさ》であったが、淀君や秀頼の衿持《プライド》が強いのと幸村、盛親、基次、直之などが、いずれも剛直の士で、徳川の世に生きて、かがまっているよりも、一死を潔《いさ》ぎよくしようと思っている連中ばかりなので、到頭不利な戦争をやりとげたものであろう。その上諸浪人なども、戦国時代生き残りだけに気がつよく、みんな元気がよかったのであろう。それに比べると、徳川方の連中は、金持喧嘩せずの方で、家康への義理戦で、打算戦であるだけに、大阪方の勇名ばかりが残ることになったのだろう。
 長曾我部盛親だけが大名格で、後は前に書いたように陪臣級である。それにしては、よく戦ったものである。大阪陣の文献は、みんな徳川時代に出来たものであるにも拘わらず、大阪方の戦死者は、賞《ほ》めちぎられているのは、幸村、盛親、基次、重成など、典型的な武人として、当時の人心を感動せしめた為であろう。幸村、基次、重成などの名前が、今でも児童走卒にも伝っているのは、後世の批判が公正な事を示していて、うれしい事である。こう云う名前は、映画や大衆小説の俄《にわか》作りの英雄豪傑とは又別に、百世に伝えたいものである。
 大阪城の勇士の事を思うと、人は一代名は末代と言う格言を素直に肯定出来る。



底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
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