げてしまったのである。
 老婆には驚愕と絶望とのほか、何も残っていなかった。ただ店にある五円にも足りない商品と、少しの衣類としかなかった。それでも今までの茶店を続けていけば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女にはなんの望みもなかった。
 二月もの間、娘の消息を待ったが徒労であった。彼女にはもう生きていく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。幾晩も幾晩も考えた末に、身を投げようと決心した。そして堪えがたい絶望の思いを逃れ、一には娘へのみせしめ[#「みせしめ」に傍点]にしようと思った。身投げの場所は住み馴れた家の近くの橋を選んだ。あそこから投身すれば、もう誰も邪魔する人はなかろうと、老婆は考えたのである。
 老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分が救った自殺者の顔がそれからそれと頭に浮んで、しかも、すべてが一種妙な皮肉な笑いをたたえているように思われた。しかし多くの自殺者を見ていたお陰には、自殺をすることが家常茶飯《かじょうさはん》のように思われて、大した恐怖をも感じなかった。老婆はふらふらとしたまま、欄干からずり落ちるように身を投げた。

 彼女がふと正気づいた時には、彼女の周囲
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