た頃の、彼に対する異常な尊敬を、思い出すことができた。彼の白皙な額とその澄み切った目とは、青木を見る誰人《たれびと》にも天才的な感銘を与えずにはいなかった。彼の態度は、極度に高慢であった。が、クラスの何人《なんびと》もが、意識的に彼の高慢を許していた。青木は傲然として、知識的にクラス全体を睥睨《へいげい》していたのだ。雄吉が、初めて青木の威圧を感じたのは、高等学校に入学した一年の初めで、なんでも哲学志望の者のみに、課せられる数学の時であった。数学では学校中で、いちばん造詣が深いといわれている杉本教授が、公算論を講義した時であった。中学にいた頃には首席を占めたことのある雄吉にも、そのききなれない公算論の講義には、すっかり参ってしまった。すると、雄吉のついそばに座っていた青木――その時、すでに彼の名前を知っていたのか、それともその事実があったために、名前を覚えたのか、今の雄吉には分からない――ともかく、青木がすっくと立ち上ったかと思うと、明晰《めいせき》な湿りのある声で、なんだか質問をした。それは、雄吉にはなんのことだか、ちっとも分からなかったが、あくまで明快を極めた質問らしかった。それをきいていた杉本教授は、わが意を得たりとばかり、会心の微笑をもらしながら、青木の疑問を肯定して、それに明快な答えを与えたらしい。すると今度はまた、青木がにっこり微笑して頷いて見せた。頭のいい先生と、頭のいい青木との間には、霊犀《れいさい》相通ずるといったような微妙なる了解があった。クラス全体は、まったく地上に取り残されていて、ただ青木だけが、杉本教授と同じ空間まで昇っていったような奇跡的な感銘を、雄吉たちに与えずにはいなかった。ことにその頃は、ロマンチックで、極度に天才崇拝の分子を持っていた雄吉は、一も二もなく青木に傾倒してしまった。杉本教授が生徒としての青木を尊重する度合と正比例して、雄吉の青木に対する尊敬も、深くなっていった。
 その上、青木の行動は極度にロマンチックで、天才的であった。雄吉は、ある晩十一時頃に、寄宿舎へ帰ろうとして、大きな闇を湛《たた》えている運動場の縁《ふち》を辿っていると、ふと自分と擦れ違いざまに、闇の中へ吸い込まれるように運動場の方へ急いでいる青年があった。その蒼白い横顔を見た時に、雄吉はすぐそれが青木であることを知った。
「青木君! どこへ」と、雄吉は思わず声をかけた。月夜でもない晩に、夜更けて運動場の闇の中へと歩を運ぶ青木の心が、その時の雄吉には、ちょっと分からなかったからだ。
「ちょっと散歩するのだ」といいながら、雄吉の存在などには、少しも注意を払わずに、痩せぎすな肩をそびやかせて、何かしら瞑想に耽るために、闇の中に消えていく青年哲学者――雄吉はその時、そんな言葉を必ず心のうちに思い浮べたに違いない――の姿を、雄吉はどれほど淑慕《しゅくぼ》の心をもって見送ったか分からない。
 またその頃の青木は、教室の出入りに、きっと教科書以外の分厚な原書を持っていた。雄吉などが、その頃、初めて名を覚えたショーペンハウエルだとかスピノザなどの著作や、それに関する研究書などを、ほとんどその右の手から離したことがなかった。しかも、それを十分の休憩時間などに、拾い読みしながら、ところどころへ青い鉛筆で下線《アンダーライン》を引いていた。
 そうした青木の、天才的な知識的な行動――それを雄吉は後になってからは衒気《アフェクテーション》の伴ったかなり嫌味なものと思ったが、その当時はまったくそれに魅惑されて、天才青木に対する淑慕を、いやが上に募らせてしまった。むろん、彼は意識して懸命に青木に近づいていった。彼の友人というよりも、彼の絶対的な崇拝者として、彼の従順なる忠僕としてであった。
 青木と雄吉との交情が、何事もなく一年ばかり続いた頃であった。そこに、雄吉に対する大なる災難――それは青木に対してもやはり災難に相違なかった――が、萌芽し始めていた。
 それは、たしか雄吉らが、高等学校の三年の二学期のことだったろう。赤煉瓦の古ぼけた教室の近くにある一株の橄欖《かんらん》が、小さい真っ赤な実を結んでいる頃であった。二、三日前から蒼白な顔を、いよいよ蒼白にして、雄吉が話しかけても、鼻であしらっていた青木が、とうとう堪らなくなったように、教室の壁に身を投げかけるようにしながら、
「さあ! いよいよ田舎へ帰るんだぞ!」と、吐き出すように叫んだ。それは、雄吉にとっては、まったく意外なことであった。雄吉は、自分の君主の身の上にでも、災難が襲いかかってきたかのように、狼狽しながら、
「君が国へ帰る? どうしてだ?」と、きいた。
「どうもしないさ。俺の親父が破産したというだけさ」と、青木は沈痛な、しかも冷静な調子でいった。
 青木の家は、雄吉の知る限りでは、田舎のかなりの資産を持った商人らしかった。青木が、クラスの中で最も多く原書を買い込む事実からいっても、彼がその時まで給与されていた学資は、かなり豊富であったらしかった。
「じゃ、学資が来なくなったわけなんだね」と、雄吉は、この場合にもっと適当した言葉がほかにあると思いながら、とうとうこんな平凡なことをいってしまった。青木は、雄吉の質問をいかにもくだらないといったように、
「まあ! そんなわけさ」と、いったまま黙ってしまった。
 センチメンタルで、ロマンチックで、感激家であった雄吉が、突然青木の身の上に振りかかった危難を知って、極度に感激したのは、むろんのことであった。彼は、どんなことがあっても、青木を救ってやらねばならぬと思った。雄吉にとって、青木を救う唯一の手段は、やっぱり、今自分が世話になっている近藤家の金力に、すがるよりほかはなかった。雄吉は、そう考えると、その日学校から帰ると、自分が家庭教師兼書生といったような役回りをしている近藤家の主人に、涙を流さんばかりに青木の救済を頼んだ。
「本当に、その男は天才なんです、教授連が、すっかり舌を巻いているのです。後来きっと日本の学界に独歩するほどの大哲学者になりそうです」と、自分のいっていることに、十分確信を持ちながら、青木の効能を長々と述べたてた。すると、主人の近藤氏は、実業家に特有な広量な態度で、
「俺は、哲学ということは、どんな学問だか、一向心得んが、いずれ国家に有用な学問に相違なかろうから、その方面の天才を保護するのも、決して無用のことじゃなかろう、君がそうまでいうのなら、青木という人も、家へ来てもらって一向差支えがない」と、こういいながら、何か掘出し物の骨董をでも買うような心持で、青木を世話することを引き受けてくれた。雄吉は、この時ほど、近藤氏を偉く思ったことはなかった。
 雄吉は、自分の手で青木を救い得たことを、どれほど欣《よろこ》んだか知れなかった。雄吉は、その翌日その吉報をもたらして、いそいそとして登校した。その途中でも、彼は、青木がその知らせに接して、どんなに欣ぶか、どんなに自分の親切を感謝するだろうかと考えると、自分の心がわくわくと、鼓動するのを覚えた。
 が、雄吉が、寄宿舎の窓にもたれて、霜柱の一面に立っている運動場を放心したようにぼんやりと見つめている青木を見つけて、近藤氏の厚意を話した時――大なる興奮と感激とをもって、話した時、青木はその起きてから間もないと見え、極度に蒼白い顔の筋肉を、ぴくりともさせずに、ただ一言、「そうかい!」と、いったばかりであった。雄吉は、青木の冷静な、ほとんど無関心な態度を、ある種の驚異をもって見た。自分の身の上に湧いてくる危難を、ものの数ともせずに、雄吉の親切などを、眼中においてない青木の態度を、雄吉は怒るよりも、むしろ呆気《あっけ》に取られて見つめるばかりであった。
「じゃまあ! 近藤氏の世話にでもなるか。学校なんかどうだっていいのだが、好き好《この》んでよすにも当らないからな」と、いつものように、傲岸にいい放ちながら、にやりと青木に特有な、皮肉な、人を頭から嘲《あざけ》っているような、苦笑をもらした。雄吉は、自分の全心を投じた親切を、青木のために、こんなに手ひどく扱われながら、それでも青木が、とうとう自分の親切を受け入れてくれて、自分の崇敬|措《お》く能わざる青年哲学者の危急を救い得たことを、無上の光栄のように欣んでいた。

 青木が、近藤家に寄寓して、雄吉と同室に起臥することになったのは、それから間もなくのことであった。今までもそうであったが、こう二人の生活が、ことごとに交渉することになってからは、雄吉の生活は、ことごとく青木の意志の支配を受けていた。近藤家から命ぜられるすべての仕事は、ことごとく雄吉の負担であった。それと反対に、近藤家から与えられる恩典の大部分は青木が独占した。が、雄吉はそうした自分の従属的な生活を、少しも後悔してはいなかった。思索家、青年哲学者としての青木に対する彼の崇拝は、少しの幻滅をも感じなかったばかりでなく、青木との交情が進むに従って、ますます拡大され、かつ深められていた。ことに、青木が三年になって以来、校友会の雑誌に続けざまに発表した数篇の哲学的論文は、彼の青木に対する尊敬を極度にまで煽《あお》り立てねば止まないものであった。一つは「ベルグソンの哲学の欠陥」といい、一つは「実在としての神」というのであった。その二つの論文が学校中に起した感動《センセーション》はかなり素晴らしいものであった。天才青木! それは、雄吉のクラスだけでの合言葉ではなくなって、ほとんど学校中全体にさえ承認を求めるようにまで進んでいった。雄吉は、青木の天才が、こうした輝かしい承認を受け始めたことを、どんなに驚喜したか、わからなかった。こうして、多くの人々から認められるにつけて、青木の自信と傲慢とは、正比例して増進していった。たしか彼が、近藤家へ移ってからのことであった。その頃、京都大学の哲学教授で、名声|嘖々《さくさく》として、思想界の注目をひいていた北田博士が珍しく上京して、大学の講堂で講演をした。それをききに行って帰ってきた青木は、雄吉の顔を見ると、いつものように、吐き出すような調子で、「北田博士から、あの哲学者らしい顔付を除けば、跡には何も残りゃしないぜ」と、いったまま、口をつぐんでしまった。雄吉は、北田博士に対しても、十分な尊敬を持っていたが、彼の崇拝する青木が天下の大学者たる北田博士を一言の下に片づけるその大胆さを、痛快に思わずにはおられなかった。
 雄吉の青木に対する尊敬は、少しも変らなかったが、近藤家に来てから、青木の生活は、妙にぐれ出していた。彼はむろん、実家が破産したということから、ずいぶん大きい打撃を受けていた上に、日常の生活においては、かなり享楽者《エピキュリアン》であった青木は、なんといっても不自由な寄食的生活と、月々給与せられる五円という小額な小遣いとのために、その生活をかなり虐げられているらしかった。彼は、見る見るうちに蔵書――高等学校生としては極度に豊富な蔵書を、売り払ってしまった。彼には、他人の家に宿食してからも、その享楽的な生活を更改することが苦痛らしく見えた。彼は蔵書を売り払った金で、やっぱり本郷あたりのカフェで、香りと味の強烈な洋酒の杯を享楽していた。そのうちに、青木の身辺から、消滅するものはその蔵書ばかりではなくなった。いつの間にか、彼の懐中時計は彼の机上から、影を隠していた。
 そんなことが起っているうちに、だんだん雄吉と青木との二人を襲う災害が近づいてきていたことを、雄吉は少しも気づかなかった。雄吉は、青木のそうした放逸な生活も、天才的な性格にはありがちな放縦として、むしろ好意をもって彼を見守っていた。
 三月の試験が間近に迫ってきた頃であった。雄吉が何かの用で少し遅れて、学校から帰ってきた。すると、よほど前から帰っていたらしい青木は、雄吉の目の前に、いきなりある小さい紙片を広げて見せた。
 それは、金銭上の取引きなどには疎《うと》い雄吉にとっては、かなり珍しい小切手であった。しかも、雄吉ら学生にとってはかなりの大金だといってもいい百円とい
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