矢部さんが貰ってくれたんだ」と、青木の答は、整然として一糸も乱れていなかった。その瞬間、雄吉は近藤氏の言い分の方を、何かの間違いではないかと、思ったほどであった。
「そうか。それなら、はなはだ結構だ。実は、さっき、ここの主人に呼ばれて行ってみると、主人があの小切手を出して、これに覚えがあるかと、いうのだ。で、あると俺が答えると、主人は、あの小切手は主人の手文庫にしまっておいたもので、俺が盗んだのだろうというのだ。が、君が本当に翻訳の前金として貰ったというのなら大いに安心した。じゃこれから、主人のところへ行って、弁解してくれないか」
それをきいた時の、青木の狼狽さ加減を、雄吉は今でも忘れない。青木は、彼が今まで装ってきた冷静と傲岸とが、ことごとく偽物であったと、思われるばかりに、度を失ってしまった。彼の顔は、一時さっと真っ赤になったかと思うと、以前より二、三倍も、蒼白な顔に返りながら、
「君、本当かい、主人が本当にそんなことをいったのかい」と、青木は哀願的に、ほとんど震えるばかりの声を出した。
「本当だとも、今から主人の前へ出れば分かることだ」と、雄吉は厳然としていった。彼はその瞬間、
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