は社会的に、存在し得なくなるからな」と、苦り切ってはいたが、しかし紳士としての自分の品格を、傷つけることを怖れるかのように、その心に動いている雄吉に対する侮蔑と憤怒とを、あくまでも冷静に抑えているらしかった。
雄吉は、ただ茫然として、すべての考察を奪われた人間のごとく、主人と自分との間にある畳の縁を、ぼんやりと見つめているばかりであった。彼のこれほどまでに尊敬している青木が、主人の手文庫から小切手を盗み出したということが、彼には夢にも予想し得ないことだった。また盗んだものを、白昼公然と、自分に命じて、引き出しにやった青木の大胆さは、ほとんど常識を備えた者としては考えられないことだった。しかし雄吉は主人の前に蹲《うずくま》りながら、この事件から身を脱するのは、なんでもないことだと思った。
「あの小切手は青木が、持っていたものです」といってしまえば、自分だけは手もなくこの災難から脱することができると思った。が、その時の雄吉は――青木の人格的魅力に陶酔しきっていた雄吉は、自分に降りかかって来た嫌疑を、手もなく、青木に背負わせて、自分一人浮び上るのに堪えなかった。彼はその時、ふと青木の今までの行動から、彼の道徳性を調べて見る気になった。青木は一体盗みをするという悪癖を持っているのだろうかと考えた。すると、雄吉の心にふと、一月前の青木に関したある光景が浮んできた。それは学校の教室で、青木が、新しく古本屋から買ったばかりだというドイツ語の辞書を見ていると、すぐ横にいた同じクラスの藤野という男が、
「おやっ! 君はこの辞書をどこで買ったんだい」と、きいた。すると、青木は、何を無礼な質問をと、いったように例のごとく高飛車に、
「なんだってそんなことをきく必要があるんだ。どこで買おうと俺の勝手じゃないか」と、冷淡にほとんど取りつく島もないような返事をした。気の弱い藤野は、青木の剣幕に威圧されてしまったらしく、そのまま黙ってしまった。が、雄吉はそれからしばらくしてから、友達の誰かに藤野が、
「不思議なことがあればあるものだね。僕が盗まれたドイツ語の辞書を、青木君がどこかの古本屋で買ったらしいよ」と、いっているのをきいた。そのことを、青木にきかせるのは、ただ青木を不快にするばかりだと思ったから、雄吉は自分一人の胸のうちに止めておいたが、今、雄吉が近藤氏の前にあって、青木の過去の行動を顧みると、この辞書の問題が、彼の心に大いなる疑念を湧かした。藤野の好意ある解釈、盗まれた本を青木が古本屋を通じて買ったという解釈――むろん雄吉はその当時はそれについて、なんの疑念も懐かなかった――が果して正しいものだろうか。この小切手の事件から思い合わすると、その辞書は藤野の所有から、なんらの仲介なしに、直接青木の所有に移ったのではあるまいか。雄吉はそう考えてくると、もうそれは、動かすべからざる事実のように思われ始めた。
雄吉が、心のうちで青木の悪癖を確かめているのを、近藤氏は、雄吉が苛責の心に責められているのだと思ったらしく、
「ああもういい。あちらへ行って休み給え。君は見たところ、立派な体格を持っているのだから、心を入れかえて奮闘さえすれば、一人前の人間に成れぬことはない。さあ、もうあちらへ行き給え」と、いった。
雄吉の沈黙を、服罪だと解釈した主人は、もうこの上責める必要もないと思ったのか、またこの不快な会見を、早く切り上げようと思ったのか、しきりに雄吉を促したてた。
「実は、あの小切手は青木が持っていたのです」と、雄吉は口まで迸《ほとばし》って出ようとする言葉を抑えつけながら、彼は懸命になって、自分の採るべき処置を考えた。天才と病的性格ということを、彼は思い出した。盗癖のある青木が、そうした欠陥にもかかわらず、輝いた天分を持っている。青木の、こうした天才を保護し守り育ててやることが、われら凡庸に育ったものの当然尽すべき義務ではあるまいかと、雄吉は思った。自分が近藤家から追われる! そのことによって、どんな損害を受けても、それは一人の天才の前途を暗くすることに比べれば、なんでもないことじゃないかと、雄吉は思った。ことに、体格の強壮な自分なら、苦学でもなんでも、やれぬことはない。これに反して青木、羸弱《るいじゃく》といってもよい青木にとって、苦学などということは、思いも及ばぬことだった。こう考えてくると、ロマンチックな感激と、センチメンタルな陶酔――それらのものを雄吉は、後年どれだけ後悔し、どれだけ憎んだかわからないが――とで、彼の心はいっぱいになった。――俺は、青木の罪を引き受けてやろう、そうすれば、青木も俺の犠牲的行動に感服して、その恐るべき盗癖から永久に救われるに違いないと雄吉は思った。むろん青木が帰宅して、彼が自分で責任を持って自首するといえばそれまでだ
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