う額面であった。雄吉は、妙な不安と興奮とをもって、青木の手中にあるその小切手を見つめた。
「どうしたのだ、その金は?」と、雄吉の声は、かなり上ずっていた。
「どうもしないさ」と、青木はいつものように、冷静であった。「矢部さんがね、僕の窮状に同情してくれて、翻訳の口を探してくれたのさ。かなり大きい翻訳なのだ、僕が困るといったものだから、これだけ前金を融通してくれたのだ、はははは」と、彼はこともなげに笑った。矢部さんというのは、学校の先輩で、もうすでに文壇にも十分に認められている新進の哲学者であって、青木は二、三度、この人を訪問したことがある。雄吉は、青木に向いてきた幸運を、自分のことのように欣《よろこ》んだ。それと同時に、まだ学生でありながら、そうした大きい翻訳に従事する青木を、賛嘆せずにはおられなかった。
「それで、君に頼みたいのだがね、この小切手を、一つ貰ってきてくれないか。○○銀行支店といえば、そう遠くないのだから、四時までには行けるだろう。裏へ署名して判を押すのだが、僕は判を持っていないから、君の名でやってくれないか」
雄吉が、青木の依頼を唯々諾々《いいだくだく》としてきいたのはむろんである。雄吉は、自分が青木の代人としてそうした大金を引き出すのを、一個の名誉であるがごとく、欣んで○○銀行支店へ駆けつけた。
手の切れるような、十円札を十枚、汗ばんだ手で握りしめながら、雄吉はあたふたと帰ってくると、青木は鷹揚に、
「やあ御苦労御苦労」と頷いて、雄吉から受け取った札を数えると、その中から二枚を雄吉の前に差し出しながら、「ほんの少しだが、取っておいてくれ給え」といった。中学時代から、貧家に育った雄吉には、二十円というような大金をまとめて掴《つか》んだことは、そうたびたびある経験ではなかった。雄吉は、自分の尊敬する君主から、拝領物をでも戴いたように低頭せんばかりに、
「やあ、ありがとう」と、いいながらそれを押し戴くようにした。
八十円を懐にした青木は、線香花火のように燦《きらび》やかな贅沢をやった。彼は、クラスの誰彼を、その頃有名に成りかけていた、 鎧橋《よろいばし》際のメイゾンコーノスへ引っ張って行って、札びらを切って御馳走した。そして、二晩も三晩も、寄宿舎へ泊るといって、近藤の家へは帰ってこなかった。
が、一週間と経ち、十日と経つうちに、青木はまた元のように慎ましい生活を強いられているようであった。それは、雄吉にとっては忘れられない四月の十一日の晩であった。晩餐を済すと、青木は「ちょっと散歩してくる」といって出ていったまま、なかなか帰って来なかった。雄吉はただ一人、春の宵にありがちな不思議な憂鬱に襲われて、ぼんやり机にもたれていると、後の襖が、音も無く開かれたと思うと、聞き馴れた小間使いの声がして、
「旦那様が、ちょっと御用です」と、いった。
「はあ」と答えると、雄吉は気軽に立ち上った。また、いつものように、到来物の礼状でも書かされるのだなと思いながら、長い廊下を通って、主人の部屋へ行った。いつもは、微笑を含みながら、雄吉を迎える主人が、にこりともしないで、苦り切ったまま座っているので、雄吉はいささか勝手が違いながら、座って礼をした。すると、主人は、「はなはだ不快な用事だが」といいながら、その膝の上に置いてあった紙入から、小さい紙片を取り出して、雄吉の目の前に押しやりながら、
「どうだ、それに覚えがあるかな」と、硬い、凍ってしまったような声でいった。雄吉は、なんだか見覚えがあるように思った。彼は、恐る恐る、それを取り上げた。雄吉の目が、紙面を見詰めた瞬間に、彼の全身は水を浴びせられたように戦《おのの》いた。それは紛れもない、百円の小切手であった。しかも自分が、青木の命令によって、唯々諾々として○○銀行支店へ引き出しに行った百円の小切手に相違なかった。主人は、雄吉の顔面に現れた狼狽を見済すと、以前よりももっと冷たい声で、
「その裏の署名捺印は、お前のに相違なかろうな」といった。雄吉はぶるぶる震える手で裏を返して見た。そこには、明確に過ぎると思われるほど、丁寧な楷書で、広井雄吉と署名されて、捺印されている。
「俺《わし》はもう何もいわない。最初その小切手が、俺の手文庫から紛失しているのを発見した時、俺は女中か何かの出来心かと思っていた。それが俺の考え違いであったことを、俺は遺憾に思うだけじゃ。俺は、貴君に対して、別に法律上の制裁を与えようというのでもなければ、その金を返してくれというのでもない。ただ貴君が、俺の家を出るということだけは、この場合、貴君が当然採るべき義務だと思うだけだ。ただ貴君のために一言いっておくが、今度のことで、貴君がなんの制裁をも受けなかったといって、これから後もやはりこうしたことを続けていると、貴君
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