た。
この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使榊原飛騨守である。飛騨守は「今こそ攻めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」と忠直卿に言上した。
忠直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方《まちみかた》の備をもって、これに当っていた。
すると、意外にも、本多忠政、松平忠明等、渡辺大谷などの備を遮二無二切崩して真田が陣へ駆け込んで来た。また水野勝成等も、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂に三方から敵を受けたのである。
「最早これまでなり」と意を決して、冑の忍の緒を増花形《ますはながた》に結び――これは討死の時の結びようである――馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬《ひぢりめん》の陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って敵に向ったと言う。
三方の寄手合せて三万五千人、真田勢僅かに二千余人、しかも、寄手の戦績はかばかしく上らないので、家康は気を揉《も》んで、稲富喜三郎、田付《たづけ》兵庫等をして鉄砲の者を召連れて、越前勢の傍より真田勢を釣瓶打《つるべうち》にすべしと命じた位である。
真田勢の死闘の程思うべしである。
幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺《くびずり》の間に中《あた》ったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取付き差うつむくところを、忠直卿の家士西尾|仁右衛門《にえもん》が鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。
西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその胄が、嘗《かつ》て原隼人に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本|闕《か》けていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。
西尾は才覚なき士で、その時太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。
幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆守信幸に賜ったので、信幸は二男内記をして首級は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。
この役に、関西方に附いた真田家の一族は、尽《ことごと》く戦死した。甥幸綱、幸堯《ゆきたか》等は幸村と同じ戦場で斃《たお》れた。
一子大助は、城中において、秀頼公の最期間近く自刃して果て、父の言葉に従った。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5−86)(「三ヶ国」)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「関ヶ原」等)を小振りにつくっています。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年9月10日作成
2010年5月19日修正
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