、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、使を命ぜられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う。昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途、又|搦手《からめて》に来り、通らせてくれと云う。昌幸又易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云って感嘆したと云う。
此時の城攻《しろぜめ》に、後年の小野次郎左衛門事|神子上《みこがみ》典膳が、一の太刀の手柄を表している。剣の名人必ずしも、戦場では役に立たないと云う説を成す人がいるが、必ずしもそうではない、寄手力攻めになしがたきを知り、抑えの兵を置きて、東山道を上ったが、関ヶ原の間に合わなかった。
関ヶ原戦後、昌幸父子既に危かったのを、信幸信州を以て父弟の命に換えんことを乞う。だが昌幸に邪魔された秀忠の怒りは、容易に釈《と》けなかったが、信幸父を誅《ちゅう》せらるる前に、かく申す伊豆守に切腹仰せつけられ候えと頑張りて、遂に父弟の命を救った。時人、義朝には大いに異なる豆州|哉《かな》と、感嘆した。
[#7字下げ]大阪入城[#「大阪入城」は中見出し]
関ヶ原の戦後、昌幸父子は、高野山の麓《ふもと》九度|禿《かむろ》の宿《しゅく》に引退す。この時、発明した内職が、真田紐であると云うが……昌幸六十七歳にて死す。昌幸死に臨み、わが死後三年にして必ず、東西手切れとならん、我生きてあらば、相当の自信があるがと云って嗟嘆した。
幸村、ぜひその策を教えて置いてくれと云った。昌幸曰く策を教えて置くのは易いが、汝は我ほどの声望がないから、策があっても行われないだろうと云った。幸村是非にと云うたので、昌幸曰く「東西手切れとならば、軍勢を率いて先ず美野《みの》青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかし、それは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって、瀬田へ引き取るのだ。そこでも、四五日を支えることが出来るだろう。かくすれば真田安房守こそ東軍を支えたと云う噂が天下に伝り、太閤恩顧の大名で、大阪方へ附くものが出来るだろう。しかし、この策は、自分が生きていたれば、出来るので、汝は武略我に劣らずと云えども、声望が足りないからこの策が行われないだろう」と云った。後年幸村大阪に入城し、冬の陣の時、城を出で、東軍を迎撃すべきことを主張したが、遂に容れられなかった。昌幸の見通した通り
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