、漸く身を起した。額の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、凡ての血の色を無くしてゐた。彼はオヅ/\車内をのぞき込んだ。
「何処もお負傷《けが》はありませんか。お負傷《けが》はありませんか。」
「馬鹿! 負傷《けが》どころぢやない。大変だぞ。」と、信一郎は怒鳴りつけずにはゐられなかつた。彼は運転手の放胆な操縦が、此の惨禍の主なる原因であることを、信じたからであつた。
「はつはつ。」と運転手は恐れ入つたやうな声を出しながら、窓にかけてゐる両手をブル/\顫はせてゐた。
「君! 君! 気を確《たしか》にしたまへ。」
信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返さうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えはてさうなうめき[#「うめき」に傍点]声を続けてゐる丈《だけ》であつた。
口から流れてゐる血の筋は、何時の間にか、段々太くなつてゐた。右の頬が見る間に脹《は》れふくらんで来るのだつた。信一郎は、ボンヤリつツ立つてゐる運転手を、再び叱り付けた。
「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当をしないと助からないのだぞ。」
運転手は、夢から醒めたやうに、運転手席に着いた。が、発動機の壊れてゐる上に、前方の車軸までが曲つてゐるらしい自動車は、一寸《いつすん》だつて動かなかつた。
「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のやうに顫へ声で云つた。
「ぢや、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴なら、遠くはないだらう。医者と、さうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原へ電話が通ずるのなら、直ぐ自動車を寄越すやうに頼むのだ。」
運転手は、気の抜けた人間のやうに、命ぜらるゝ儘に、フラ/\と駈け出した。
青年の苦悶は、続いてゐる。半眼に開いてゐる眼は、上ずツた白眼を見せてゐるだけであるが、信一郎は、たゞ青年の上半身を抱き起してゐるだけで、何《ど》うにも手の付けやうがなかつた。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、たゞ茫然と見詰めてゐるだけであつた。
信一郎は青年の奇禍を傷むのと同時に、あはよく免れた自身の幸福を、欣ばずにはゐられなかつた。それにしても、何《ど》うして扉が、開いたのだらう。其処から身体が出たのだらう。上半身が、半分出た為に、衝突の時に、扉と車体との間で、強く胸部を圧し潰ぶされたのに違ひなかつた。
信一郎は、ふと思ひついた。最初、車台が海に面する断崖へ、顛落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟に右の窓を開けたに違ひなかつた。もし、さうだとすると、車体が最初怖れられたやうに、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者は此青年であつたかも知れなかつた。
車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだつた。自動車の苟《かりそ》めの合乗《あひのり》に青年と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運の両極に立つたわけだつた。
信一郎は、さう考へると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になつたやうな、青年のいたましい姿を、一層あはれまずにはゐられなかつた。
彼は、ふとウ※[#小書き片仮名ヰ、17−上−16]スキイの小壜がトランクの中にあることを思ひ出した。それを、飲ますことが、かうした重傷者に何《ど》う云ふ結果を及ぼすかは、ハツキリと判らなかつた。が、彼としては此の場合に為し得る唯一の手当であつた。彼は青年の頭を座席の上に、ソツと下すとトランクを開けて、ウ※[#小書き片仮名ヰ、17−上−21]スキイの壜を取り出した。
二
口中に注ぎ込まれた数滴のウ※[#小書き片仮名ヰ、17−下−2]スキイが、利いたのか、それとも偶然さうなつたのか、青年の白く湿《うる》んでゐた眸が、だん/\意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかつたうめき声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。
「気を確《たしか》にしたまへ! 気を! 君! 君! 青木君!」信一郎は、力一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。
青年は、ぢつと眸を凝すやうであつた。劇しい苦痛の為に、ともすれば飛び散りさうになる意識を懸命に取り蒐めようとするやうだつた。彼は、ぢいつと、信一郎の顔を、見詰めた。やつと自分を襲つた禍《わざはひ》の前後を思ひ出したやうであつた。
「何《ど》うです。気が付きましたか。青木君! 気を確にしたまへ! 直ぐ医者が来るから。」
青年は意識が帰つて来ると、此の苟《かりそめ》の旅の道連《みちづれ》の親切を、しみ/″\と感じたのだらう。
「あり――ありがたう。」と、苦しさうに云ひながら、感謝の微笑を湛へようとしたが、それは劃《しきり》なく襲うて来る苦痛の為に、跡なく崩れてしまつた。腸《はらわた》をよぢるやうな、苦悶の声が、続いた。
「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」
信一郎は、相手の苦悶のいた/\しさに、狼狽しながら答へた。
青年は、それに答へようとでもするやうに、身体を心持起しかけた。その途端だつた。苦しさうに咳き込んだかと思ふと、顎から洋服の胸へかけて、流れるやうな多量の血を吐いた。それと同時に、今迄充血してゐた顔が、サツと蒼ざめてしまつた。
青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだつた。
医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分つた。青年の顔に血色がなかつた如く、信一郎の面《おもて》にも、血の色がなかつた。彼は、彼と偶然知己になつて、直ぐ死に去つて行く、ホンの瞬間の友達の運命を、ぢつと見詰めてゐる外はなかつた。
太平洋を圧してゐる、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまつた。夕闇の迫つてゐる崖端《がけばな》の道には、人の影さへ見えなかつた。瀕死の負傷者を見守る信一郎は、ヒシ/\と、身に迫る物凄い寂寥を感じた。負傷者のうめき声の絶間には、崖下の岩を洗ふ浪の音が淋しく聞えて来た。
吐血をしたまゝ、仰向けに倒れてゐた青年は、ふと頭を擡げて何かを求めるやうな容子をした。
「何です! 何です!」信一郎は、掩ひかぶさるやうにして訊いた。
「僕の――僕の――鞄《トランク》!」
口中の血に咽せるのであらう、青年は喘ぎ喘ぎ絶え入るやうな声で云つた。信一郎は、車中を見廻した。青年が、携へてゐた旅行用の小形の鞄《トランク》は座席の下に横倒しになつてゐるのだつた。信一郎は、それを取り上げてやつた。青年は、それを受け取らうとして、両手を出さうとしたが、彼の手はもう彼の思ふやうには、動きさうにもなかつた。
「一体、此の鞄《トランク》を何うするのです。」
青年は、何か答へようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、先刻の吐血の名残りらしい少量の血であつた。
「開けるのですか。開けるのですか。」
青年は肯かうとした。が、それも肯かうとする意志だけを示したのに、過ぎなかつた。信一郎は鞄《トランク》を開けにかゝつた。が、それには鍵がかゝつてゐると見え、容易には開かなかつた。が、此場合瀕死の重傷者に、鍵の在処を尋ねるなどは、余りに心ないことだつた。信一郎は、満身の力を振つて、捻ぢ開けた。金物に付いて、革がベリ/\と、二三寸引き裂かれた。
三
「何を出すのです。何を出すのです。」
信一郎は、薬品をでも、取り出すのであらうと思つて訊いた。が、青年の答は意外だつた。
「雑記帳《ノートブック》を。」青年の声は、かすかに咽喉を洩れると、云ふ程度に過ぎなかつた。
「ノート?」信一郎は、不審《いぶか》りながら、鞄《トランク》を掻き廻した。いかにも鞄《トランク》の底に、三帖綴の大学ノートを入れてあるのを見出した。
青年は、眼で肯いた。彼は手を出して、それを取つた。彼は、それを破らうとするらしかつた。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり廻る丈《だけ》で、一枚の紙さへ破れなかつた。
「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」
彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼつた。そして、哀願的な眸で、ぢいつと、信一郎を見詰めた。
信一郎は、大きく肯いた。
「承知しました。何か、外に用がありませんか。」
信一郎は、大声で、而も可なりの感激を以て、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、云ひたい所であつた。が、さう云ひ出すことは、此のうら若い負傷者に取つて、余りに気の毒に思はれた。が、さう云つてもよいほど青年の呼吸は、迫つてゐた。
信一郎の言葉が、青年に通じたのだらう。彼は、それに応ずるやうに、右の手首を、高く差し上げようとするらしかつた。信一郎は、不思議に思ひながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に透して見ると、青年は腕時計をはめてゐるのであつた。
「時計ですか。此時計を何《ど》うするのです。」
烈しい苦痛に、歪んでゐる青年の面に、又別な苦悶が現はれてゐた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかつた。彼の蒼白《まつさを》だつた面《おもて》は微弱ながら、俄に興奮の色を示したやうであつた。
「時計を――時計を――返して下さい。」
「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になつて訊き返した。
「お願ひ――お願ひ――お願ひです。返して下さい。返して下さい。」
もう、断末魔らしい苦悶に裡に、青年は此世に於ける、最後の力を振りしぼつて叫んだ。
「一体、誰にです? 誰にです。」
信一郎は縋《すが》り付くやうに、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしてゐるらしかつた。たゞ、低い切れ切れのうなり声が、それに答へた、だけだつた。信一郎は、今此の答へを得て置《おか》なければ永劫に得られないことを知つた。
「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」
青年の四肢が、ピクリ/\と痙攣し始めた。もう、死期の目睫の間に迫つてゐることが判つた。
「時計を誰に返すのです。青木君! 青木君! しつかりし給へ。誰に返すのです。」
死の苦しみに、青年は身体を、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死の耳に通じないやうに見えた。
「時計を誰に返すのです。名前を云つて下さい。名前を云つて下さい。名前を!」
信一郎の声も、狂人のやうに上ずツてしまつた。その時に、青年の口が、何かを云はうとして、モグ/\と動いた。
「青木君、誰に返すのです?」
永久に、消え去らうとする青年の意識が、ホンの瞬間、此世に呼び返されたのか、それとも死際の無意味な囈語《うはごと》であつたのだらうか、青年は、
「瑠璃子! 瑠璃子!」と、子供の片言のやうに、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思ふと、それがサツと潮の引くやうに、衰へてしまつてガクリとなつたかと思ふと、もう、ピクリともしなかつた。死が、遂に来たのである。
四
信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の顎から咽喉にかけての、血を拭つてやつた。
だん/\蝋色に、白んで行く、不幸な青年の面《かほ》をぢつと見詰めてゐると、信一郎の心も、青年の不慮の横死を悼む心で一杯になつて、ほた/\と、涙が流れて止まらなかつた。五年も十年も、親しんで来た友達の死顔を見てゐる心と、少しも変らなかつた。何と云ふ、不思議な運命であらうと、信一郎は思つた。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしき妻夫愛児の臨終にさへ、いろ/\な事情や境遇のために、居合はさぬ事もあれば、間に合はぬ事もあるのに、ホンの三十分か四十分の知己、ホンの暫時の友人、云はゞ路傍の人に過ぎない、苟《かりそめ》の旅の道伴《みちづれ》でありながら、その死床に侍して、介抱をしたり、遺言を聞いてやると云ふことは、何と云ふ不思議な機縁であらうと、信一郎は思つた。
が、青年の身になつて、考へて見ると、一寸した小旅行の中途で思ひがけない奇禍に逢つて、淋しい海辺の一角で、親兄弟は勿論親しい友達さへも居合はさず、他人に外ならない信一郎に、死水を――それは水でなく、数滴
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