弟なのだらう。品のよい鼻と、黒く澄み渡つた眸とが、争はれない生れのけ高さを示してゐた。殊に、け高く人懐しさうな眸が、此の青年を見る人に、いゝ感じを与へずにはゐなかつた。クレイヴネットの外套を着て、一寸した手提鞄を持つた姿は、又なく瀟洒に打ち上つて見えた。
「それで貴君《あなた》様の方を、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して熱海へ行くことに、此方《こちら》の御承諾を得ましたから。」と、大男は信一郎に云つた。
「さうですか。それは大変御迷惑ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となつた。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。
「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が云つた。
 運転手の手は、ハンドルにかゝつた。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車したばかりの電車を追ひかけるやうに、凄じい爆音を立てたかと思ふと、まつしぐらに国府津の町を疾駆した。
 信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の許に行けるかと思ふと、汽車中で感じた焦燥《もどか》しさや、いらだたしさは、後なく晴れてしまつた。自動車の軽動《ジャン》に連れて身体が躍るやうに、心も軽く楽しい期待に躍つた。が、信一郎の同乗者たるかの青年は、自動車に乗つてゐるやうな意識は、少しもないやうに身を縮めて一隅に寄せたまゝその秀《ひい》でた眉を心持ひそめて、何かに思い耽つてゐるやうだつた。車窓に移り変る情景にさへ、一瞥をも与へようとはしなかつた。

        五

 小田原の街に、入る迄、二人は黙々として相並んでゐた。信一郎は、心の中では、此青年に一種の親しみをさへ感じてゐたので、何《ど》うにかして、話しかけたいと思つてゐたが、深い憂愁にでも、囚はれてゐるらしい青年の容子は、信一郎にさうした機会をさへ与へなかつた。
 殆ど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付は、愈《いよ/\》そのけ高さを加へてゐるやうであつた。が、その顔は何うした原因であるかは知らないが、蒼白な血色を帯びてゐる。二つの眸は、何かの悲しみのため力なく湿んでゐるやうにさへ思はれた。
 信一郎はなるべく相手の心持を擾すまいと思つた。が、一方から考へると、同じ、自動車に二人切りで乗り合はしてゐる以上、黙つたまゝ相対してゐることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるやうにも思はれた。
「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」
 と、信一郎は漸く口を切つた。会話のための会話として、判り切つたことを尋ねて見たのである。
「いや、此の前の上りで来たのです。」と、青年の答へは、少し意外だつた。
「ぢや、東京からいらつしたんぢやないんですか。」
「さうです。三保の方へ行つてゐたのです。」
 話しかけて見ると、青年は割合ハキ/\と、然し事務的な受け答をした。
「三保と云へば、三保の松原ですか。」
「さうです。彼処《あすこ》に一週間ばかりゐましたが、飽きましたから。」
「やつぱり、御保養ですか。」
「いや保養と云ふ訳ではありませんが、どうも頭がわるくつて。」と云ひながら、青年の表情は暗い陰鬱な調子を帯びてゐた。
「神経衰弱ですか。」
「いやさうでもありません。」さう云ひながら、青年は力無ささうに口を緘《つぐ》んだ。簡単に言葉では、現はされない原因が、存在することを暗示するかのやうに。
「学校の方は、ズーツとお休みですね。」
「さうです、もう一月ばかり。」
「尤も文科ぢや出席してもしなくつても、同じでせうから。」と、信一郎は、先刻《さつき》青年の襟に、Lと云ふ字を見たことを思ひ出しながら云つた。
 青年は、立入つて、いろ/\訊かれることに、一寸不快を感じたのであらう、又黙り込まうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずつと文芸の方に親しんで来た信一郎は、此の青年とさうした方面の話をも、して見たいと思つた。
「失礼ですが、高等学校は。」暫らくして、信一郎はまたかう口を切つた。
「東京です。」青年は振り向きもしないで答へた。
「ぢや私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないやうですが、何年にお出になりました。」
 青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたやうであつた。華やかな青春の時代を、同じ向陵《むかうがをか》の寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合ふ特殊の親しみが、青年の心を湿《うる》ほしたやうであつた。
「さうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君は。」
 青年は初めて微笑を洩した。淋しい微笑だつたけれども微笑には違ひなかつた。
「ぢや、高等学校は丁度僕と入れ換はりです。お顔を覚えてゐないのも無理はありません。」さう云ひながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。
「あゝ渥美さんと仰《おつ》しやいますか。僕は生憎名刺を持つてゐません。青木淳と云ひます。」と、云ひながら青年は信一郎の名刺をぢつと見詰めた。

        六

 名乗り合つてからの二人は、前の二人とは別人同士であるやうな親しみを、お互に感じ合つてゐた。
 青年は羞み家であるが、その癖人一倍、人|懐《なつこ》い性格を持つてゐるらしかつた。単なる同乗者であつた信一郎には、冷めたい横顔を見せてゐたのが、一旦同じ学校の出身であると知ると、直ぐ先輩に対する親しみで、懐《なつ》いて来るやうな初心《うぶ》な優しい性格を、持つてゐるらしかつた。
「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当もなく宿《とま》り歩いてゐるのですが、何処へ行つても落着かないのです。」と、青年は訴へるやうな口調で云つた。
 信一郎は、青年のさうした心の動揺が、屹度青年時代に有勝《ありがち》な、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違ひないと思つた。が、何う云つて、それに答へてよいか分らなかつた。
「一層《いつそ》のこと、東京へお帰りになつたら何うでせう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却つて孤独から来る淋しさ迄が加はつて、愈《いよ/\》堪へられなくなつて、又都会へ追ひ返されたものです。僕の考へでは、何かを紛らすには、東京生活の混乱と騒擾とが、何よりの薬ではないかと思ふのです。」と、信一郎は自分の過去の二三の経験を思ひ浮べながらさう云つた。
「が、僕の場合は少し違ふのです。東京にゐることが何うにも堪らないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」
 青年は、又黙つてしまつた。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けてゐるらしい青年の容子は信一郎の眼にもいたましく見えた。
 自動車は、もうとつくに小田原を離れてゐた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けてゐる高い崖の上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆してゐるのであつた。
 道は、可なり狭かつた。右手には、青葉の層々と茂つた山が、往来を圧するやうに迫つてゐた。左は、急な傾斜を作つて、直ぐ真下には、海が見えてゐた。崖がやゝ滑かな勾配になつてゐる所は蜜柑畑になつてゐた。しら/″\と咲いてゐる蜜柑の花から湧く、高い匂が、自動車の疾駆するまゝに、車上の人の面《おもて》を打つた。
「日暮までに、熱海に着くといゝですな。」と、信一郎は暫らくしてから、沈黙を破つた。
「いや、若《も》し遅くなれば、僕も湯河原で一泊しようと思ひます。熱海へ行かなければならぬと云ふ訳もないのですから。」
「それぢや、是非湯河原へお泊りなさい。折角お知己《ちかづき》になつたのですから、ゆつくりお話したいと思ひます。」
「貴方は永く御滞在ですか。」と、青年が訊いた。
「いゝえ、実は妻が行つてゐるのを迎へに行くのです。」と、信一郎は答へた。
「奥さんが!」さう云つた青年の顔は、何故だか、一寸淋しさうに見えた。青年は又黙つてしまつた。
 自動車は、風を捲いて走つた。可なり危険な道路ではあつたけれども、日に幾回となく往返《ゆきかへり》してゐるらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、結句気楽さうに、奔放自在にハンドルを廻した。その大胆な操縦が、信一郎達をして、時々ハツと息を呑ませることさへあつた。
「軽便かしら。」と、青年が独語《ひとりごと》のやうに云つた。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない轟々と云ふ響が、山と海とに反響《こだま》して、段々近づいて来るのであつた。

        七

 轟々ととゞろく軽便鉄道の汽車の音は、段々近づいて来た。自動車が、ある山鼻を廻ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えてゐた。絶えず吐く黒い煙と、喘いでゐるやうな恰好とは、何かのろ[#「のろ」に傍点]臭い生き物のやうな感じを、見る人に与へた。信一郎の乗つてゐる自動車の運転手は、此の時代遅れの交通機関を見ると、丁度お伽噺の中で、亀に対した兎のやうに、いかにも相手を馬鹿にし切つたやうな態度を示した。彼は擦れ違ふために、少しでも速力を加減することを、肯んじなかつた。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の崖壁の間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを廻しかけたが、それは、彼として、明かな違算であつた。其処は道幅が、殊更狭くなつてゐるために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあつた、軌道と岩壁との間には、車体を容れる間隔は存在してゐないのだつた。運転手が、此の事に気が付いた時、汽車は三間と離れない間近に迫つてゐた。
「馬鹿! 危い! 気を付けろ!」と、汽車の機関士の烈しい罵声が、狼狽した運転手の耳朶を打つた。彼は周章《あわ》てた。が、遉《さすが》に間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車は辛く衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホツとした。が、それはまたゝく暇もない瞬間だつた。左へ躱した自動車は、躱し方が余りに急であつた為、機《はづ》みを打つてそのまゝ、左手の岩崖を墜落しさうな勢ひを示した。道の左には、半間ばかりの熊笹が繁つてゐて、その端《はづれ》からは十丈に近い断崖が、海へ急な角度を成してゐた。
 最初の危機には、冷静であつた運転手も、第二の危険には度を失つてしまつた。彼は、狂人のやうに意味のない言葉を発したかと思ふと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂ひの努力は間に合つた。三人の生命を託した車台は、急廻転をして、海へ陥ることから免れた。が、その反動で五間ばかり走つたかと思ふと、今度は右手の山の岩壁に、凄じくぶつ突《つか》つたのである。
 信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、烈しい力で、狭い車内を、二三回左右に叩き付けられた。眼が眩んだ。しばらくは、たゞ嵐のやうな混沌たる意識の外、何も存在しなかつた。
 信一郎が、漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、海老のやうに折り曲げられて、一方へ叩き付けられてゐる自分を見出した。彼はやつと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫で廻はした彼は自分が少しも、傷付いてゐないのを知ると、まだフラ/\する眼を定めて、自分の横にゐる筈の、青年の姿を見ようとした。
 青年の身体は、直ぐ其処にあつた。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ[#「はみ」に傍点]出してゐるのであつた。
「もし/\、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたやうに、ゾツとした。
「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答へなかつた。たゞ、人の心を掻きむしるやうな低いうめき声が続いてゐる丈《だけ》であつた。
 信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色を呈してゐる。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であつた。而《しか》もその血は、唇から出る血とは違つて、内臓から迸つたに違ひない赤黒い血であつた。


 返すべき時計

        一

 信一郎が、青年の身体をやつと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されてゐた運転手は
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