ばかりに、駭《おどろ》いたのも無理ではなかつた。駭くのと一緒に、有頂天になつて、躍り上つて、欣ぶべき筈であつた。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に云ひ知れぬ不安が、潮の如くヒタ/\と彼女の胸を充した。
 瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るやうに、無言のまゝぢつと見詰めて居た。
 父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻の男は、やんごとない[#「やんごとない」に傍点]高貴の方の前にでも出たやうに、ペコ/\した。
「これは、これは男爵様でございますか。私はあの、荘田に使はれてをりまする矢野と申しますものでございます。今日は止むを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願ひ致しまする次第で、何の御猶予も致しませんで、誠に恐縮致してをる次第でござります。」父は、さうした挨拶に返事さへしなかつた。
「証文を出して呉れたまへ。」父の言葉は、匕首のやうに鋭く短かつた。
「はあ! はあ!」
 相手は、周章《あわて》たやうに、ドギマギしながら、折鞄の中から、三葉の証書を出した。
 父は、ぢつと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴みにして
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