僕は生憎名刺を持つてゐません。青木淳と云ひます。」と、云ひながら青年は信一郎の名刺をぢつと見詰めた。
六
名乗り合つてからの二人は、前の二人とは別人同士であるやうな親しみを、お互に感じ合つてゐた。
青年は羞み家であるが、その癖人一倍、人|懐《なつこ》い性格を持つてゐるらしかつた。単なる同乗者であつた信一郎には、冷めたい横顔を見せてゐたのが、一旦同じ学校の出身であると知ると、直ぐ先輩に対する親しみで、懐《なつ》いて来るやうな初心《うぶ》な優しい性格を、持つてゐるらしかつた。
「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当もなく宿《とま》り歩いてゐるのですが、何処へ行つても落着かないのです。」と、青年は訴へるやうな口調で云つた。
信一郎は、青年のさうした心の動揺が、屹度青年時代に有勝《ありがち》な、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違ひないと思つた。が、何う云つて、それに答へてよいか分らなかつた。
「一層《いつそ》のこと、東京へお帰りになつたら何うでせう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人
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