ばいゝとさへ思つた。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいやうな気持だつた。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思ふと、彼女は、動くことさへ出来なかつた。彼女は、そのまゝ椅子に凍り付いたやうに、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待つてゐようと思つた。が、あゝそれが何と云ふ悪魔の悪戯《いたづら》だらう! 母達は、だん/\美奈子のゐる方へ歩み寄つて来るのであつた。彼女の心は当惑のために張り裂けるやうだつた。母と青年とが、若《も》し自分を見付けたらと思ふと、彼女の身体全体は、益々顫へ立つて来た。
が、母と青年とは、闇の中の樹蔭の椅子《ベンチ》に、美奈子がたつた一人蹲まつてゐようとは、夢にも思はないと見え、美奈子のゐる方へ、益々近づいて来た。美奈子は、絶体絶命だつた。母達が気の付かない内に、自分の方から声をかけようと思つたが、声が咽喉にからんでしまつて、何うしても出て来なかつた。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行つた時だつた。今まで、美奈子の方へ真直に進んで来てゐた母達は、つと右の方へ外れたかと思ふと、其処に茂つてゐる樹木の向う側に、樹木を隔てゝ美奈子とは、背中合せの椅子《ベンチ》に、腰を下してしまつた。
美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホツと一息した。が、また直ぐ、母と青年とが、話し初める会話を、何うしても立聞かねばならぬかと思ふと、彼女はまた新しい当惑に陥ちてゐた。彼女は母と青年とが、話し初めることを聞きたくなかつた。それは、彼女にとつて余りに恐ろしいことだつた。殊に、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いてゐるところを見ると、それが世間並の話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかつた。今まで、信頼し愛してゐる母の秘密を知りたくなかつた。美奈子は、自分の眼が直ぐ盲になり、耳が直ぐ聾することを、どれほど望んでゐたか判らなかつた。若し、それが出来なければ、一目散に逃げたかつた。若し、それが出来なかつたら、両手で二つの耳を堅く/\掩うてゐたかつた。
が、彼女がどんなに聴くことを、厭がつても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、ゐなかつたのである。夜の静かなる闇には、彼等の話声を妨げる少しの物音もなかつたのである。
四
夜は静《しづか》だつた。母と青年との話声は、二間ばかり隔つてゐたけれども、手に取るごとく美奈子の耳――その話声を、毒のやうに嫌つてゐる美奈子の耳に、ハツキリと聞えて来た。
「稔さん! 一体何なの? 改まつて、話したいことがあるなんて、妾《わたし》をわざ/\こんな暗い処へ連れて来て?」
さう言つてゐる母の言葉や、アクセントは、平生の母とは思へないほど、下卑てゐて娼婦か何かのやうに艶《なまめ》かしかつた。而も、美奈子のゐるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々しく呼んでゐるのだつた。かうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、止《とゞ》めの一太刀を受けたと云つてもよかつた。今まで、あんなに信頼してゐた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶々々に引き裂いた。
瑠璃子に、さう言はれても、青年は却々《なか/\》話し出さうとはしなかつた。沈黙が、二三分間彼等の間に在つた。
母は、もどかしげに青年を促した。
「早く、おつしやいよ! 何をそんなに考へていらつしやるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、淋しがつてゐるのですもの。歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言つて御覧なさい! まあ、自烈《じれ》つたい人ですこと。」
美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮葉《はすは》に乱暴なのを聴いて、益々心が暗くなつた。
青年は、それでも却々話し出さうとはしなかつた。が、母の気持が可なり浮いてゐるのにも拘はらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。
「さあ! 早くおつしやいよ。一体何の話なの?」
母は、子供をでも、すかす[#「すかす」に傍点]やうに、なまめいた口調で、三度催促した。
「ぢや、申上げますが、いつものやうに、はぐらか[#「はぐらか」に傍点]して下さつては困りますよ。僕は真面目で申しあげるのです。」
青年の口調は、可なり重々しい口調だつた。一生懸命な態度が、美奈子にさへ、アリ/\と感ぜられた。
「まあ! 憎らしい。妾《わたし》が、何時|貴君《あなた》を、はぐらか[#「はぐらか」に傍点]したのです。厭な稔さんだこと。何時だつて、貴方《あなた》のおつしやることは、真面目で聴いてゐるではありませんか。」
さう言つてゐる母の言葉に、娼婦のやうな技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。
「貴女《あなた》は、何時もさうなのです。貴女は、何時も僕にさうし
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