、自分の父を頼もしく思はずにはゐられなかつた。

        五

 唐沢の家を呪咀するやうな、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫に依つて運ばれて来た。
 初《はじめ》ほどの驚駭《ショック》は、受けなかつたけれども、その一葉々々に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を衝いた。
「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権の蒐まつた方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省けていゝ。」
 父は何気ないやうに、済ましてゐるやうだつたが、然し内心の苦悶は、表面《うはべ》へ出ずにはゐなかつた。殊に、父は相手の真意を測りかねてゐるやうだつた。何のために、相手がこれほど、執念深く、自分を追窮して来るのか、判りかねてゐるやうだつた。
 が、瑠璃子には相手の心持が、判つてゐる丈、わづかばかりの恨を根に持つて、何処までも何処までも、付き纏つて来る相手の心根の恐ろしさが、しみ/″\と身に浸みた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪で、彼女の心は一杯になつた。彼の金力を罵つた自分達丈を苦しめる丈なら、まだいゝ、罪も酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはゐられなかつた。
 かうして、父が負うてゐる総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たつた一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまつた頃であつた。
 ある朝、彼女は平生《いつも》のやうに郵便物を見た。――かうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違ひなかつた。其処には恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出されたから――。が、今では不安な、いやな仕事になつてしまつた。
 彼女は、その朝もオヅ/\郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれてゐた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれてゐる四字に、釘付けにされずにはゐなかつた。それは紛れもなく荘田勝平の四字だつたのである。
 黒手組の脅迫状を受けたやうに、悪魔からの挑戦状を受けたやうに、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごつちや[#「ごつちや」に傍点]になつて、わく/\と胸にこみ上げて来た。
 彼女は、その封筒の端をソツと、醜い蠑螺《ゐもり》の尻尾をでも握るやうに、摘み上げながら、父の部屋へ持つて行つた。
 父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉をひそめた。暫らくは開いて見ようとはしなかつた。
「何と申して参つたのでございませう。」瑠璃子は、気になつて、急《せ》かすやうに訊いた。
 父は、荒々しく封筒を引き破つた。
「何だ!」父の声は、初から興奮してゐた。
「――此度小生に於て、買占め置き候貴下に対する債権に就て、御懇談いたしたきこと有之《これあり》、且つ先日杉野子爵を介して、申上げたる件に付きても、重々の行違《ゆきちがひ》有之《これあり》、右釈明|旁々《かた/″\》近日参邸いたし度く――あゝ何と云ふ図々しさだ。何と云ふ! 獣のやうな図々しさだ。よし、やつて来い。やつて来るがいゝ。来れば、面と向つて、あの男の面皮を引き剥いて呉れるから。」
 父は、さう云ひながら、奉書の巻紙を微塵に引き裂いた。老い凋《しな》んだ手が、怒《いかり》のために、ブル/\顫へるのが、瑠璃子の眼には、傷《いた》ましくかなしかつた。

        六

 父も瑠璃子も、心の中に戦ひの準備を整へて、荘田勝平の来るのを遅しと待つてゐた。
 手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、邸前の坂道を、見下してゐると、遥《はるか》に続いてゐるプラタヌスの並樹の間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラ/\と反射しながら、眩しいほどの速力で、坂を馳け上つたかと思ふと、急に速力を緩めて、低いうめく[#「うめく」に傍点]やうな警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしてゐたことながら、瑠璃子は今更のやうに、不快な、悪魔の正体をでも、見たやうな憎悪に、囚はれずにはゐられなかつた。
 自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔を拭きながら、ぬつとその巨きい頭を出したのは、紛れもないあの男だつた。何が嬉しいのか、ニコ/\と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだつた。
 瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考へ迷つた。顔を合はしたり、一寸でも言葉を交すのが厭でならなかつた。が、それかと云つて、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、此の人に限つて出ないのは、何だか相手を怖れてゐるやうで彼女自身の勝気が、それを許さなかつた。さうだ! あんな卑しい人間に怯れてなるものか。彼の男こそ、自分の清浄な処女の誇の前に、愧ぢ怯れていゝのだ。さう思ふと、瑠璃子は処女《をとめ》にふさはしい勇気を振ひ興して、孔雀のやうな誇
前へ 次へ
全157ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング