た蝶の身悶えに、過ぎなかつたのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見てゐたのだ。
今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。彼女を、純真な女性であると信じてゐた自分は、さうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかつた。彼女を囲んでゐる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思つた。勝利者であると思つた。自分は、人知れず、得々として之《こ》れを手首に入れてゐた。彼女の愛の把握が其処にあるやうに思つてゐた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるやうに思つてゐた。
が、自分のさうした自惚は、さうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまつたのだ。皮肉に残酷に。
昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の駭《おどろ》きは、何んなであつたらう。若《も》し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたに違《ちがひ》ない。自分が、それを持つてゐる手は思はず、顫へたのである。
自分は急《せ》き込んで訊いた。
「これは、何処からお買ひになつたのです。」
「いや、買つたのではありません。ある人から貰つたのです。」
大尉の答は、憎々しいほど、落着いてゐた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ/\と見えてゐるではないか。
[#ここで字下げ終わり]
七
[#ここから1字下げ]
――その時計は、自分の時計と、寸分違つてはゐなかつた。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取つてかけ替のない、たつた一つの時計ではなかつたのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないやうに、
「何うです。仲々奇抜な意匠でせう。一寸類のない品物でせう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けてゐた。自分は、自分の右の手首に入れてゐるそれと、寸分違
前へ
次へ
全313ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング