なかつた。三分経ち、五分経ち、十分経つた。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら/\して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であつたやうに、悔いられた。
その裡に、ふと気が付くと、正面の炉棚《マンテルピース》の上の姿見に、自分の顔が映つてゐた。彼が何気なく自分の顔を見詰めてゐた時だつた。ふと、サラ/\と云ふ衣擦れの音がしたかと思ふと、背後《うしろ》の扉《ドア》が音もなく開かれた。信一郎が、周章《あわて》て立ち上がらうとした時だつた。正面の姿見に早くも映つた白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然《えんぜん》たる微笑の会釈を投げたのである。
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰つて、まだ着替へも致してゐなかつたのですもの。」
長い間の友達にでも云ふやうな、男を男とも思つてゐないやうな夫人の声は、媚羞と狎々《なれ/\》しさに充ちてゐた。しかも、その声は、何と云ふ美しい響と魅力とを持つてゐただらう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまつた。
「いや突然伺ひまして……」と、彼は立ち上りながら答へた。声が、妙に上ずツて、少年か何かのやうに、赤くなつてしまつた。
深海色にぼかした模様の錦紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるやうに、椅子に落着けた。
「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳さんのやうに、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のやうでございますもの。」
初対面の客に、ロク/\挨拶もしない中《うち》に、夫人は何のこだはりもないやうに、自由に喋べり続けた。信一郎は、夫人からスツカリ先手を打たれてしまつて、暫らくは何《なん》にも云ひ出せなかつた。彼は我にもあらず、十分受け答もなし得ないで、たゞモヂ/\してゐた。夫人は、相手のさうした躊躇などは、眼中にないやうに、自由で快活だつた。
「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄の申《さる》でございませうかしら。妾《わたし》と同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」
信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸つたやうに、話手の美しさに酔《ゑ》ひながら、暫らくは茫然としてゐた。
二
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