。
「さあ! おかけなさい!」
夫人はその青年のために、座席《シート》を取つて置いたかのやうに、自分の右に置いてあつた小さなトランクを取り除けた。
五
美奈子は、駭《おどろ》きに目を眸《みは》りながら[#「眸《みは》りながら」は底本では「眸《みはり》りながら」]、それでもそつと青年の顔を窃《ぬす》み見た。それは、紛れもなく彼の青年であつた。墓地で見、電車に乗り合はし、自分の家を訪ねるのを見た彼の青年に違ひなかつた。
美奈子は、胸を不意に打たれたやうに、息苦しくなつて、ぢつと面《おもて》を伏せてゐた。
が、美奈子のさうした態度を、処女に普通な羞恥だと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに云つた。
「これが先刻《さつき》お話した青木さんなの。」
紹介された青年は、美奈子の方を見ながら、丁寧に頭を下げた。
「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかゝつたことがありましたね。」
さう云はれて、『はい。』と答へることも、美奈子には出来なかつた。彼女はそれを肯定するやうに、丁寧に頭を下げた丈けだつたが、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、彼女をどんなに欣ばしたか分らなかつた。
青年は、瑠璃子の右側近く腰を降した。
「貴君《あなた》、大変だつたのよ。今東京駅でね。皆知つていらつしやるのよ。妾《わたし》が今日立つと云ふことを。そればかりでなく貴君が一緒だと云ふこと迄知つていらつしやるのよ。だから、極力打ち消して置いたのよ。若し青木さんが一緒だつたら、その償ひとして皆さんを箱根へ御招待しますつて。それでも皆善人ばかりなのよ、おしまひには妾《わたし》の云ふことを信じてしまつたのですもの。だから、妾《わたし》が云はないことぢやないでせう。品川か新橋か孰《どち》らかでお乗りなさいと。妾《わたし》、貴君が妾《わたし》の云ふことを聴かないで、ひよつくり東京駅へ来やしないかと思つて、ビク/\してゐましたの。」
夫人は、弟にでも話すやうに、馴々しかつた。青年は姉の言葉をでも、聴いてゐるやうに、一言一句に、微笑しながら肯いた。
それを、黙つて聴いてゐる美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラ/\と湧いて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないやうな、不快な気持だつた。彼女は、母に対して、不快を感じてゐるのでなく、青年に対して、不快を感じてゐるのでなく、たゞ
前へ
次へ
全313ページ中244ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング